楽しき農夫

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 アップライトピアノの上に長年積み重ねたままにしていた箱や書類の封筒はすっかり片付けられていた。教室に通い出した喜美恵のために思いきって買った。三十年も前の話だ。高い買い物だった。  家に来た日のことをはっきりと覚えている。玄関の前に停められたトラックの横に書いてあるピアノ運送専門という文字。狭い玄関を通るのか、そんな心配は無用だった。体格のいい二人の若者が手馴れた様子で持ち上げ、気がつくと居間の一角に鎮座していた。  調律師もやってきた。素人には聞き分けられない違いがわかるのだろうか。何度も鍵盤を叩きながら少しずつ音が調整されていく。  傍らに、真新しい鍵盤に触るのを楽しみにして目を輝かせている喜美恵がいた。若かった妻の悦子が目を細めている。  懐かしい光景だ。あの頃はとても幸せだった。未来は間違いなく輝いていた。高校を卒業してすぐに父さんとは一緒に暮らしたくないと言って家を出た喜美恵がようやく帰ってきた。小柄な女の子の手をひいていた。何歳と聞くと、九歳と答える。同い年の子どもと比べても小さく見えた。父親は来なかった。一緒に暮らしてもいないし元から結婚してもいなかったからと煙草の煙を吐き出しながら自嘲気味に笑う。髪の毛は金色で、ところどころが紫だ。細かった昔の面影が見当たらないほど太っている。情けない。  家族のためだけに人生を過ごしてきたつもりだった。裏切られた気がする。ぶくぶく太った金髪の後姿を見ていると、可愛らしかった頃の記憶がただただ悲しい。  娘がこんな情けない姿になるなどと想像したこともなかった。しかも、定年を迎えるこの歳になって。  そう、自分はもうすぐ定年を迎える。  仕事がなくなる。
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