楽しき農夫

3/29
前へ
/29ページ
次へ
 会社に行けなくなることが恐ろしくてたまらなかった。開放感や達成感を感じることはなかった。ただひたすらに、いつものように通勤する朝が来なくなることに怯えていた。会社に人生を捧げたつもりは無いが、結果的に仕事の中身は変わっても会社が人生そのものだった。自分の人生から会社を取り除いたら、何も残らないような気がしてならなかった。  溜息交じりで相談した妻からは意外な言葉を告げられた。もう充分あなたのお世話はしたから私も引退します。別れてください。  何を言われたのかよくわからなかった。  目の前にいるのは長年見慣れた妻ではない。知らない人が、年老いた女性がそこにいる。  妻にも裏切られた。  怒りが湧き上がっていた。  俺はお前たちのためだけに生きてきたというのに、お前たちは俺を裏切るのか。そんなことが許されるとでも思っているのか。誰のおかげで飯を食えてきたと思っているんだ。俺はお前たちに人生を捧げた。お前たちは俺に何を捧げたというのだ。俺に何も捧げずに、俺をただ捨てると言うのか。  悶々としながら深酒をした次の日、血を吐いて倒れた。  妻も一緒に来るようにと呼び出された病院で胃腸の良性の腫瘍の可能性について簡単な説明を聞いた。妻だけが残るように言われた。  出てきた妻の目が赤かった。昔から隠し事のできない性格だ。  覚悟はあるつもりだった。きちんとした告知を受けたいと願っていた、はずだった。しかし、今ここで事実を聞きたいかと言われると迷う。もうすぐ定年なのだ。せめて定年まではなんとかならないだろうか。娘にも妻にも疎まれ、そのうえ会社にも捨てられてしまうのか。俺が何をしたって言うんだ。俺の人生がこんなことで終わっていいのか。定年になったら今まで家族に捧げてきた人生をゆっくりと取り戻し自分の好きなことでもして老後を過ごすのではなかったのか。  その老後はもうない。  何の意味も無い馬鹿馬鹿しい人生だった。つまらない一生、無駄な人生。  あえて告知を受けることもない。どうせ死ぬのなら事実を聞こうが聞くまいがそんなことはどうでもいいじゃないか。  世の中は公平じゃない。俺ばかりが不幸だ。  自分の予感が間違っていることだけに一縷の望みをかけ、告知を受けた。 「余命は半年、もって一年です」  まだ四十前後なのだろう、若い医者は淡々とそう言った。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加