楽しき農夫

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 お前は嘘をついている。  頭に血が上った。何か叫んだような気がする。急に目の前が暗くなった。  気がつくとベッドで横になっていた。意識を失ってしまったらしい。傍らに悦子が座っているのがぼんやりと見えた。泣いているのだろうか、鼻をすすっている。  ああ、じゃあ、あれは本当の話だったんだ。  何もかもが夢ではないかと思っていた。目が覚めたら、今よりもっと幸せな本当の人生が待っているような気がしてならなかった。  目を閉じても開けても、何も変わらない。現実だ。歳をとり衰え髪も薄くなった妻の傍らで、病いに侵されもうすぐ死んでしまう哀れな自分が横たわっている。  弘明の目から涙がこぼれ落ちた。 「すまんな」  弘明が言った。  それまで何とかこらえていたはずの悦子が、いきなり大きな声を上げて泣き出した。 「私のほうこそごめんなさい」  何のことを言っているのかはよくわかった。離婚の話だ。  もう、そんなことはどうでもよくなっていた。これから死ぬのだ。そんな俺をほったらかしにできるような、悦子はそんな人間ではないだろう。  起きるのも辛かった。ついさっきまで、結果を聞くまでは健康だったのに、医者の余計な話のせいで一気に病人になってしまった。医者に殺される。  住み慣れたはずの家に戻っても何もかもが違って見えた。俺が死んでいくのとは無関係に何もかもが残り続ける。俺にとって世界が終わるというのに、世界の全てが俺を見殺しにしようとしている。何もかもが俺から目を逸らしている。  孤独だった。死んでいくのはひとりだけだ。自分が死んだ後も皆は生きていくのだろう。  悦子が作った食事はうまく喉を通らなかった。  どうせ死ぬんだ。何を食べても同じだ。  酒を飲んでも酔えない。風呂に入っても身体の芯が冷たい。電気を消して布団に入ろうとした。急に暗闇が恐ろしくなって電気を点けた。蛍光灯の明かりが部屋を寒々と照らしていた。  どうしてこんな目にあわなければいけないのか。  気がつくと泣いていた。布団に突っ伏して、泣いた。  泣き疲れ、いつもより深く、眠った。夢は見なかった。  目が覚めても何も変わっていなかった。当日の朝になって欠勤の連絡をするのは何年ぶりのことだろう。三十年、いや、四十年ぶりだろうか。喜美恵が生まれるより前だったか、それとも後だったか。
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