楽しき農夫

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 会社に欠勤を告げる電話は、結局、自分でかけることができず悦子に頼んだ。弘明が何か頼むと必ず小言を返す悦子が、何も言わずに会社に電話した。  それも気に食わなかった。  もう一度寝ようと横になったが眠れない。自分が哀れでならなかった。  ひとり死にゆく哀れな老人、それが俺だ。  仕事の定年がそのまま人生の定年になってしまうとは。  定年後の幸せな人生を空想しなかったことが無いと言えば嘘になる。色々あったが、妻と二人でのんびり過ごす、そんな老後を漠然と思い描いていた。  そんな老後は俺には訪れないのだ。これで終わりだ。  会社には病気のことは伝えなかった。どうせ定年になるのだ。入院することになるとしても、どうせ退職後の話だ。今さらどうこう言うのも馬鹿げている。何事もなかったかのように定年までを過ごし、それでおさらばだ。  中学を出てすぐに上京した。田舎で農業を続ける両親や同級生達と比べて都会の工場で働く自分が誇らしく思えたのをよく覚えている。だが、都会にあると聞いていた工場は狸の出てくる雑木林を切り開いた淋しい場所にあり、最寄の駅までは歩いて二時間以上もかかった。しかも、工場の隣の寮は、汚く狭く、夏は蒸し風呂のように暑く、冬は隙間風で震えるほど寒かった。  それでも、文句も言わず一所懸命に働いた。僅かな賃金ではあったが、仕送りもした。野良仕事に明け暮れる実家の両親よりも工場で働いて給料をもらう自分のほうが恵まれている。心の底からそう思っていた。  自動車の時代は加速していた。工場のラインで組み立てた車は、まさに飛ぶように売れていた。寮の駐車場にも先輩社員達の車が並んでいた。いつの日か、自分の車もそこに並べるのが夢だった。その車に乗ってあちこち走り回り、自分の組み立てた車ですと胸を張るのが夢だった。  工場で支給された作業着が普段着で、寮と工場の食堂が日々の食事だった。仕送りを送っても金は残った。夢のマイカーはそうやって貯めた頭金と会社で用意してくれたローンで実現した。入社して3年めだった。同じ年齢の高卒が入社してきた。中卒の社員達は古株社員の面持ちで先輩風を吹かせた。しばらくしたら、打ち解けた。さらに四年後には大卒の社員がやってきた。最初から本社や管理の仕事に入った彼らとの接点はあまりなかった。
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