楽しき農夫

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 その頃は会社の年中行事が本当に楽しみだった。夏の海水浴、秋の社員旅行、泊り込みの忘年会。写真好きの同僚が首から下げたカメラで写真を撮った。集合写真は真剣な面持ちで、宴席では笑って。海にも山にもでかけた。親と孫ほど歳が離れた工場長や本部のお偉方とも宴席では無礼講だった。そうして過ごす時間が楽しくて、家族や故郷と離れて暮らす寂しさを思い出すことはあまりなかった。  同じ工場に入社してきた悦子と初めて話したのも社員旅行でのことだ。品質管理の仕事で本社から派遣された大卒エリート社員の木下とも酒を交わした。現場の環境と取り組みについて朝まで熱く語り合った。想い出の詰まったアルバムには木下と肩を組んで笑っている写真があったはずだ。  今では本社で副社長になった、同い年の木下。  もう何年もあのアルバムを見ていない。  いつの間にかまた眠ってしまっていた。  もう昼頃だろうか。  ふすまを隔てた隣から、悦子と喜美恵と喜美恵の娘の愛の声が小さく聞こえる。  頭に血が上った。オレのことを言っているのか。  激しくふすまを開けた。怒りの表情だったに違いない。が、思いがけないことに隣の部屋にいた三人は楽しげだった。 「あら、お父さん、起きたの」  悦子が嬉しそうに言った。その横の喜美恵も愛も笑っていた。  怒りの矛先を納めるのにとまどった。 「お父さん、お茶でも飲む? それとも朝も食べてないからお腹も空いたでしょう。何か用意しますか」  悦子がのんびりと言った。 「ああ、そういえば私たちも食べてなかったじゃない」 「ママ、私、おなか減っちゃった」 「ちょっと待っててね、おばあちゃんがおうどん用意してあげるから」 「愛、おうどん食べれるよ」  孫の愛の舌足らずな口ぶりに心が和む。 「おばあちゃんのうどんはね、醤油をかけて食べる太いうどんなのよ。愛は食べたこと無いけど。美味しいのよ」  喜美恵が言っているのは悦子が作るさぬきうどんのことだった。 「食べる!」  愛が目を輝かせた。  そうだ。あのうどんは悦子のふるさとの味だ。 「お父さんもおうどんでいい? それともお茶漬けか何かにする?」 「ああ、そうだな、うどんでいい」  何を怒っていたのか、一瞬すっかり忘れていた。そうだ、オレのことを話していたんじゃなかったのか。 「お父さん、ちょっと聞いて」
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