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最近は不機嫌な顔しか見なかった喜美恵が、珍しく上機嫌で話しかけてきた。
「愛がピアノの発表会に出るの」
喜美恵の横で孫の愛もいい笑顔だった。
発表会?
記憶がゆっくりと蘇ってくる。
まだ小さかった喜美恵が一所懸命にピアノを弾いていた。初めての発表会の曲は、そうだ、「チューリップ」だった。
「お父さんも聞きに来てくれるでしょ」
「ああ」
言葉に詰まった。なんと言えばいいのか。
「ピアノ、いつから、習わせてたんだ?」
「昨日からだよ」
愛が自慢げに言った。
「昨日から? それで発表会?」
「違うのよ。前に住んでいたところで同じクラスの子どもが通ってるから愛も行きたいって言って、しばらく、しばらくって言っても二年だけど、教室に通ってたのよ。で、こっちに来てからそんな余裕なかったんだけど、たまたま近所にいい先生がいるってパート先のスーパーで聞いたから連れてってみたの。そしたら愛も気に入ったみたいだし、お金もそんなに高くないって言うから、その場で決めてきちゃった」
「おまえ、そんな金」
「お金のことは大丈夫よ」
キッチンから悦子の声が聞こえてきた。
なるほど、そういうことか。
「で、いつだ、発表会」
「それがね、来月なのよ」
「来月って、なに弾くんだ」
「当日のお楽しみ。愛ね、習ってたのは短かったけど、その後も学校のピアノ弾かせてもらってたのよね。だから、意外と弾けるのよ」
喜美恵は愛と顔を合わせ、笑った。
さっきの怒りはすっかりどこかに消えていた。ずっとパジャマのままだった。いつもより暖房が効いていたがそれでも肌寒い。ここ数年愛用している半纏を羽織る。そのタイミングを待っていたかのように悦子が湯気の立つうどんを持ってきた。
娘と孫と一緒に食卓を囲んでいる。
孫が美味しい美味しいと言いながら妻の作ったうどんを食べている。妻も娘も笑顔だ。
ささやかな幸せとはこういうことなのだろうか。
「お父さん」
喜美恵が子どもの頃を思い出させるような邪気の無い笑顔で話しかけてきた。
「今度から昼間に愛にピアノ練習させたいの。ウチのピアノ、使っていい?」
「もちろん。いいに決まってる」
「でも、あのピアノ、何年も使ってないわよ」
悦子が心配そうに言った。
「調律を頼めばいい」
「じゃ、片付けておかないとね」
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