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悦子も嬉しそうだった。
「やったー」
愛が飛び上がった。
喜美恵のために買ったピアノ。喜美恵が弾かなくなってから誰も弾かなかったピアノ。
そうか、愛が弾いてくれるのか。
病気のことを聞いてからずっと心が重く閉ざされていた。嬉しいとか楽しいとか、そんな気持ちは二度と感じないのではと思っていた。
そんなことはなかった。今は嬉しい。孫がピアノを弾いてくれる。本当に嬉しい。ピアノが家に来た頃の、あのまぶしいほどの未来が、少しだけ戻ってきたように思えた。
弘明の表情を見て、悦子は慌ててキッチンに戻った。目頭が熱くなっていた。喜美恵も目を閉じないようにしていた。潤んだ目から涙がこぼれてしまいそうだった。
「母さん、早速、調律師に電話しよう。名刺はどこだ」
「さあ。随分昔ですからねえ」
「そうだ、あれだ、あのピアノを拭く布に調律師の名前と電話番号が書いてあっただろ。あれだ、あれだ。母さん、あれだ」
「はいはい、テーブルの上を片付けたら探しますから」
「愛、喜美恵、どうする、今日はピアノの上を片付けたら弾いていくか」
「ダメよ、発表会まで曲は秘密だから」
「そうなのか。そうか」
「それと、私、今日はこれからパートなのよ」
「パートって、おまえ、この前言ってたスーパーのレジか」
「あそこの他に、夕方から近所のファミレスの厨房で週に三回働くことにしたの」
「大丈夫か、あまえ、そんなに働いて」
「いいのよ。お母さんに甘えるわけにもいかないから」
喜美恵の表情を見て弘明は気がついた。
無邪気に喜ぶ愛を見ると今は何も言えなかった。離婚した亭主からの養育費はほとんど支払われていないはずだ。愛を習い事に通わせる余裕がないことなどよくわかっていた。悦子がピアノ教室の分は出すからと言い、喜美恵はその分を働いて返すと言ったのだろう。
「それにしても、もっと近所に住んでれば気軽に愛も連れてこれるのに、なあ」
「いいのよ、江戸川区は子ども手当てとかも充実してるし。家にあんまり近くてお父さんやお母さんにしょっちゅう来られるより気楽だし」
「そんなことを言うな」
「いいのよ。じゃ、お父さん、またね」
「おじいちゃん、発表会、楽しみにしててね」
愛の声が弾んでいた。
「ああ、ピアノ、練習できるようにちゃんと片付けておくから」
「約束だよ」
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