楽しき農夫

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「愛、そんなに言わないの。お父さん、お母さん、じゃ、またね」  悦子と二人でピアノの上に乗せられていた雑多な荷物を片付けた。途中で何度も手を止めてしまうのはひとつひとつに残された想い出の痕跡を確かめるためだ。何もかもが懐かしい。そして何もかもが、もう要らない。  そう、自分にはもう何もかも要らない。  調律師の電話番号が印刷された布が出てきた。二十三区内の局番がまだ三桁だった。 「母さん、これはまだ通じるのかな」 「さあ、頭に3を付けるんでしたっけか」 「確かそうだ」 「いいですよ、お父さん。私がかけますよ」 「いや、いい。俺がかける」  呼び出し音が何度か鳴った後、老人の声が聞こえてきた。 「はい、森田ですが」 「調律師の森田さんですか」 「え? ああ、はい、最近はもうやっておりませんが、確かに調律の森田です」  老人の声は随分とゆっくりと聞こえた。 「もう、調律はやっていられないんですか」  少し間があった。 「しばらく前から足を患っておりまして、出張は行なっておりませんが」 「そうだったんですか」 「こちらの電話番号はどちらで?」 「実は、二十年ほど前に何度かお願いしておりまして」 「二十年前ですか」 「はい。そのピアノを孫が弾きたいと言っているんですが」 「それはそれは」 「長いこと使っていなかったものですから、調律をお願いしないといけないと思いまして」 「はあはあ」 「以前、お願いしたことがあったので、あの、なんと言うんですかね、ピアノを拭く黄色い布にお宅の電話番号があったのを拝見しまして」 「なるほど、そちらをご覧になってお電話いただいたんですね」 「はい、そうです」 「お名前を伺っておりませんでした。失礼ですが」 「坂田です。坂田弘明と申します」 「少々お待ちいただけますか」  電話から離れたようだった。 「お父さん、どうでした」  悦子が声をかけてきた。  弘明は受話器を手で覆い、ちょっと待ってろ、と声を出さずに言った。 「えー、東村山のほうにお住まいの坂田さんですか?」  受話器の向こうで手帳か何かをめくっている音が聞こえた 「はい、そうです」 「えー、っと、これはぁ。確かに、二十年ほど前に楽器店の紹介で何度かお伺いしてますね。アップライトのピアノでした」 「間違いありません」
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