第8話 その鼓動は誰のため

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 総司が亡くなって三年が過ぎた。  陽菜は県内の市街地にある小さなアパートに引っ越していた。総司が亡くなったことで地元にはいづらくなったのだ。陽菜がふったせいで彼が自殺したという噂が広まり、同情、非難、嘲笑、呆れ、好奇といったさまざまな目を向けられた。陽菜を横目で見ながらひそひそ話をされることも少なくない。  町内のどこへいってもこのような状況なので、新しい仕事を探すのも難しかった。かつてアルバイトをしていた洋菓子店の店長夫妻は、またここで働いてくれてもいいと言ってくれたが、さすがにそこまで甘える気にはなれなかったし、陽菜が接客することで迷惑を掛けるのではという懸念もあった。  母親には、大切にしてくれるなら身代わりでも何でもよかったじゃない、と婚約を白紙に戻したことについてぶつくさ文句を言われた。玉の輿に乗り損ねたバカな娘に失望したのだろう。さらに総司の遺産を譲るという申し出があったことを知ると、どうしてひとりで勝手に断ったの、この親不孝者、いまからでももらってきなさい、などとひどく感情的に責め立てられた。  逃げるように噂の及ばない市街地で一人暮らしを始めたが、幸い仕事もすぐに見つかった。製菓材料や道具の卸販売をしている会社の一般事務だ。アルバイトやパートではなく社員である。学歴・経験不問ということで、無理だろうと思いつつも応募してみたら、あっけなく採用が決まってしまった。洋菓子店でのアルバイト経験が有利に働いたのかもしれない。  仕事はこまごまとした雑用、在庫チェック、パソコンの入力作業などである。自分のパソコンは持っていなかったが、総司にときどき触らせてもらっていたので、入力作業くらいならすぐにこなせるようになった。  総司が求めていたのは陽菜でないと知ったあのとき、何もかもが崩れ去ったように感じたが、良くも悪くもそんなことはなかった。彼とともに過ごした日々の記憶や経験は、陽菜の中で確かに息づいている。何も知らない陽菜に当たり前のことを教え、空っぽな心を満たしてくれたおかげで、ひとりで生きていくことができているのだ。そのことに関しては彼に感謝するしかない。  しかし、彼の法要や墓参りには一度も行っていない。彼の母親から連絡はあるがすべて断っている。薄情だという自覚はあるが、あまり彼の家族とは関わりを持ちたくなかった。
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