第1章

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 ああ、もう死んでもいい。  そう思える瞬間があったとして、実際に死にそうな目にあったりなんかしたら本当に死んでもいいと思うのだろうか。体内で脈打つ心臓が今にも鼓動を停止しようとする苦痛に喘いでも、死んでもいいと思えるのだろうか。腹を裂いて、腸を引きずりだす激痛の最中にもう死んでもいいと思えるのだろうか。  そもそも、どういう状況にあったらそう思えるのか考えてみた。何を持って最高級というのかは分からないが、最高級の女を抱いている時とか、巨万の富を手にして札束をビルの屋上からぶちまけている時とか。それとも、世界遺産の集合体のような人類の歴史を全ての収めた遺物を見て感動した時とかだろうか。  この瞬間の為に自分は産まれてきたのだと言える瞬間。生きる事の意味をその刹那に見出す。もうこの生は終えてもいいと思わず口走る。それだけ深い感動を伝えたかっただけなのだと言われてしまえばそれまでである。けれど、そんな言葉を聞くと現実に死に際の苦痛を与えられてもそんな感動を保っていられるのだろうかと考えてしまうのだ。  リアルな生の中で発生する苦痛、恐怖、そんなものを引き合いに出して感動を表わすなどけったいなことだ。そんなもの、いくら感動しても味わいたくないに決まっている。  逆に、今わの際に苦痛がないというのであれば、もう死んでもいいなどと言う言葉に感動を表わす意味はなくなるのだろう。楽に、呼吸をするように死ぬことができるならば正直いつ死んでもどうでもいいと思ってしまう。息をするように嘘を吐く、それと同じように息をするように死んでしまう。そんな世界はどうだろうか。
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