第1話

3/34
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
思い出せば、あの時から始まっていたのかもしれない・・・ よりによって一人で海外旅行をしたいと言う幸子の申し出に、僕は、ただ、 「ああ、いいよ」 とだけ言って、経済新聞を読みながら生返事をした。 あの時は、朝だったと思う、朝食の焼けた食パンにマーガリンを塗っていた時にサチコは何気なく、僕にそう言った。 凄く自然な会話だ。 出だしは悪くなかった。 僕も、その雰囲気に何も気にも止めはしなかった。 「地中海や、エーゲ海を見たいのよ」 サチコはキッチンに立ち、皿やコーヒーカップを洗いながら、低い声でそう言った。 経済新聞の記事は、相変わらず、日銀が景気の緩やかな後退とか、夏には景気の回復が見込まれるとかを、延延と、しかし、遠回しに論点をぼかして書いてあった。 「一緒に行きたい?」 幸子はその時、水道の蛇口を閉め、濡れた手を布巾で拭って僕を見てそう言った。 朝陽が幸子の白いエプロン姿を、ボーっと白く、まるでソフトフォーカスのようにぼやけて見せた。 「いや、仕事だからね」 あの時の仕事が自分にとって、そんなに大切だったのかは、今でも悩むところだ。 実際、大切だったとしても、その仕事を一時中断して、幸子と旅行すれば良かったのではとは、今でも深くは考えない。 それは、論点が違うような気がするからだ。 まったく視点が違っているのだろう。 あの時、幸子は僅かに唇を歪めて、頬笑みかけたように?今になって思い出す。 すごく不自然な頬笑みだった。 まるで、無理やり誰かに笑えって命令されてやむなく笑ったような笑い。 僕は今、薄暗い部屋の中で幸子の白いボーッとしたエプロン姿の、あの時の残像を思い出している。 幸子は、そして不自然に笑顔を作ろうとする。 あの細い目を、もっと細くして、泣きそうな顔で。 僕は、その幻のような残像にこう言う。 「無理して微笑まなくていいよ、全ては、もう、終わってしまったのだから」
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!