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思い出せば、あの時から始まっていたのかもしれない・・・
よりによって一人で海外旅行をしたいと言う幸子の申し出に、僕は、ただ、
「ああ、いいよ」
とだけ言って、経済新聞を読みながら生返事をした。
あの時は、朝だったと思う、朝食の焼けた食パンにマーガリンを塗っていた時にサチコは何気なく、僕にそう言った。
凄く自然な会話だ。
出だしは悪くなかった。
僕も、その雰囲気に何も気にも止めはしなかった。
「地中海や、エーゲ海を見たいのよ」
サチコはキッチンに立ち、皿やコーヒーカップを洗いながら、低い声でそう言った。
経済新聞の記事は、相変わらず、日銀が景気の緩やかな後退とか、夏には景気の回復が見込まれるとかを、延延と、しかし、遠回しに論点をぼかして書いてあった。
「一緒に行きたい?」
幸子はその時、水道の蛇口を閉め、濡れた手を布巾で拭って僕を見てそう言った。
朝陽が幸子の白いエプロン姿を、ボーっと白く、まるでソフトフォーカスのようにぼやけて見せた。
「いや、仕事だからね」
あの時の仕事が自分にとって、そんなに大切だったのかは、今でも悩むところだ。
実際、大切だったとしても、その仕事を一時中断して、幸子と旅行すれば良かったのではとは、今でも深くは考えない。
それは、論点が違うような気がするからだ。
まったく視点が違っているのだろう。
あの時、幸子は僅かに唇を歪めて、頬笑みかけたように?今になって思い出す。
すごく不自然な頬笑みだった。
まるで、無理やり誰かに笑えって命令されてやむなく笑ったような笑い。
僕は今、薄暗い部屋の中で幸子の白いボーッとしたエプロン姿の、あの時の残像を思い出している。
幸子は、そして不自然に笑顔を作ろうとする。
あの細い目を、もっと細くして、泣きそうな顔で。
僕は、その幻のような残像にこう言う。
「無理して微笑まなくていいよ、全ては、もう、終わってしまったのだから」
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