蓮の章

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猥雑で下卑た喧騒に彩られる酒場の片隅で、男は猪口を傾ける。着物の襟元を存分に緩めて着崩し、卓に空の徳利が幾つも並んでいる様子を併せると、性質の悪い酒呑みの小悪党にしか見えない。 傍らに年代物らしき錫杖がなければ、誰もがそう思うだろう。 軽くなった徳利を持ち上げて、男は素面のような涼しい顔をして新たな酒を所望する。 相当量を摂取しているはずなのだが、どうやら底無しらしい。 先程まで給仕をしていた色気はあるものの、所帯染みた雰囲気の娘とは別の女が徳利を携えやってくる。 場末ではお目にかかれないような類の美しさを持った女であった。言うなれば没落しつつあるが天上人。洗練された気品のある美しさであろうか。 足下に鼠でもいたのか、解れた後ろ髪に気を取られでもしたのか、男の卓の直前で、女は蹴躓いたようによろめいた。徳利を持ったままで錫杖の男に倒れかかる。 声がかけづらい美女を遠巻きにし、笑いながら噂話をしていた周囲の男たちが、幸運な男に酔気で濁った羨望の眼差しを向けた。同時に、酒に濡れた無様な姿をも期待した。 「おっと、大丈夫か」 実際、男は恩恵を充分に味わったようである。胸元に縋りついてきた彼女の背中に、咄嗟に掴み取った徳利のない側の腕をゆっくり回して抱き止めると、彼は頬笑んだ。 生臭坊主が。 喧騒のどこかで、毒づいた声が聞こえたのは気の所為ではあるまい。
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