蓮の章

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給仕の女は、錫杖の男の首筋に鼻先を近づけて、何か囁いたように見えた。 店内の空気が燃え上がる負の炎により、一層に淀んだようだ。鬼火よりも性質が悪い。 だが、周囲の男たちの大方の予想は覆される。多くの客が、二人連れ立って上階の部屋に消えるものと思っていた。この辺りの酒場は宿屋でもあり、給仕女の中には別の生業を兼ねる者もいるのである。 結局、錫杖の男は店を出るまで、卓で酒を呑み続けた。先程の美しい給仕女の姿は知らぬ間に見えなくなっており、新顔の娘が給仕を行っていた。 外は月の見えない夜更けであった。 ようやく酔いが回ったのか、古惚けた小さな橋の袂にある酒場を出た男は、ふらりとした足取りで橋の向こう側へと渡ろうとする。錫杖を片手に、半分ほどをゆっくりと歩いて行く。気づくと、反対側の袂手前に、恐ろしげな美貌の女が佇んでいた。 「よう、元気だったか」 「久方ぶりだねぇ。全く、お前さんは厄介ごとの頼みがあるときにしか顔を見せにやって来ないじゃないか。相変わらず、つれないねぇ」 足音をたてずに近づいてきた女が、男の頬に細い手を添え、艶めいた朱唇から恨み言をこぼす。小さな橋を渡っていたはずなのだが、男女が抱き合う形なった橋上の前方も後方も、いつの間にか先の見通せない混濁とした白い靄に包まれている。
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