少しずつ縮まる距離、そして予感

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 昨日までの一哉くんだったら、朝出勤する時にもベッドの中で熟睡していた。他人のことなんて基本的に気にしないのだと思っていた。一体どういう風の吹き回しか、まさか見送ってくれると思わなかった。その衝撃に重ねてのダブルパンチだ。 「わ、遅刻!」  時計が目に入って、開いたエレベーターから慌ててヒールで走り始める。このままでは遅刻寸前だ。地下鉄にのりこみ、新聞を読む間もなく頭の中で今日のタスクを反芻する。あっという間に会社の本社ビルが見えてきて、足をさらに速める。腕時計は8時55分。 「おはようございます……っ」  始業のチャイムと共にフロアにとびこむ。きっちり髪を束ねるのが精一杯で、メイクをきちんと整える暇もなく息せききって飛びこんできた私に、同僚たちが驚いたように見ている。 「おはようございます! ぎりセーフっすね!」 「珍しいな、高梨が遅刻寸前って」 「大丈夫? かなり走ってきたんじゃないの?」  原田くんや同僚の千夏の声かけに、言葉で返す余裕もなく軽く頷きながら席につく。まさかエッチの疲れで寝坊したなんて言えるわけがない。弾む息を整えながらメールチェックする。やっぱり余裕もなく出社すると気持ちが落ち着かない。いつも日課にしていた俊樹さんの方を見てアイコンタクトをとることも忘れて、私は自分の仕事に没頭していった。  一哉くんが帰ってこない。とうに夜9時は過ぎていた。そろそろ帰ってくるはずの時間なのに。  私は世間で言う一般の仕事で、世の経済と同じサイクルで動いている。一哉くんはだいぶ自由だ。夜、一緒に眠りについても、深夜ふと目が覚めるとキーボードの所で作詞をしていたり、本を読んでいたりする。そのまま私はまた眠ってしまうけれど、朝起きるとしっかりベッドに戻っていてそのまま午前中ずっと眠っているらしい。  基本的に生活時間がまったく合わない。でもこの二、三日はだいたい今の時間に玄関の音がしていた。料理の用意をしながらもう一度時計を見る。今日は遅いのかもしれない。そこまで思って自嘲する。妻でも彼女でもあるまいし、待っている自分がいる。当然のようにこの部屋に足が向いていたけれど、いつまでも居座っていていいわけじゃない。
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