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「なに?」
「あ、ごめんなさい。邪魔して……」
転がっていたヒールを履き、バッグを手にとる。思うように体が動かない。泥にはまっているみたいだ。薄汚れたビルの壁に体を預けて、大きく深呼吸する。
湿った気配に気分の悪さがせりあがってくる。
このままでは本当に惨めな姿をさらしてしまう。埃っぽさを払う気力もなく、明るいネオンに照らされている方へ体を引きずった。ここまで悪酔いしたのは初めてだ。お酒のせいだけじゃないことは分かっているし、思い出したくもない。
途中で壁に少しもたれて呼吸を整える。振り返ると、暗がりの中で佇んでいるシルエットが見えた。華奢な体つきに背中にしょったギターが少しアンバランスだなんて能天気な気分を刺すように、強い視線が飛んでくる。彼がどんな表情をしているのかは、遠くて分からない。でもとにかく泣きたいほど恥ずかしい。
きちんと立ちなさい。
言い聞かせてお腹に力をいれる。
路地を出ようと歩き出そうとして、足元の段差につまずく。いつもなら立て直せる体勢なのに、ぐらりと傾いで思わず目を閉じた。
頭だけは打たないようにしよう、と頭の隅で思ったその瞬間、強い力で引き戻された。
「……どんだけ酒飲んでんの」
さっきと同じ声が降ってくる。とげとげしさが増している。
目を開けると、黒く肌をのたうつタトゥーが飛びこんできた。通りの赤いネオンに照らされた、峻烈に冷たい顔が見下ろしている。
耳のシルバーのフープピアスが光に反射している。
「最寄駅どこ? 送る」
「へ?」
「最寄り。家の。送るっつってんの」
剣呑とした響きに、慌てて横浜、と答える。
「っマジかよ……。あーくそっ」
少年が面倒そうに舌打ちして、私を壁際に押しつけた。
「タクシー!」
大通りに駆け出していく後ろ姿を見送りながら、その場に座りこむ。隣に乱暴に立てかけられたギターのカバーの袋の裾がほつれているのが視界に入る。
ネオンの向こうで、少年の姿がぼやけていく。それが滲んだ涙のせいだというのは分かっていた。
こんな女なんか放っとけばいいのに。
人の親切すら素直に喜べない。
「飲みに行きなさいよ……」
<そんなこと言うなよ、オレにはもったいないくらいいい女なんだから>
幻聴すらあるなんて、重症すぎる。
途切れる意識の寸前に、あの人が笑いながら応えるいつもの声が聞こえた気がした。
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