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少し振り返って聞いてきた彼に頷いたけれど、思わず目をそらす。行きずりでと聞くものの、まさか自分がそんな状況に陥るなんて思いもよらなかったし、そういう人間でもないと思っていた。知らない相手、しかもけっこう差がある年下となんて恥ずかしすぎて、彼の顔を正面からなんて見られなかった。
それでも朝の光の中で見た笑顔がひっかかって、のこのこと散歩についてきてしまった。歩いていて距離が離れすぎると、さりげなく歩幅を緩めて私が追いつくのを気にしてくれている。声をかければ聞こえる。でも親しく話すにはわずかに遠い。そんなつかず離れずの距離感が楽だった。基本的に人見知りするタイプなのか、必要なこと以外しゃべらないのも今はありがたかった。
私には少し大きめの借りたTシャツから、初夏の気持ちいい風が入りこんでくる。
慌ててバスルームに飛びこんでシャワーを借りた。その生乾きの髪がどんどん渇いていくほどに太陽の光は強い。
もうすぐ夏が来る。
彼は、緑の葉を揺らす桜並木が続く川沿いの店に立ち寄り、サンドイッチを買って再び歩き出す。お金と言いかけて、バッグも財布もなにもかも部屋に置いてきてしまっていた。年下に任せっきりだ。ため息をつきながら彼の後ろをついていくと、濃い常緑樹と青々とした落葉樹が密集した場所が見えてくる。
「あ、空いてる」
わずかに嬉しそうな様子で彼が無邪気に呟く。
思ったより空が広く見える。
木々に囲まれて、なだらかな丘陵地に芝生が広がっている。幹線道路からは見えない渋谷の住宅街の真ん中に、こんな開放的な公園があるとは思わなかった。感心している私に構わず、彼はまっすぐ丘の頂上の大木を目指して歩いていく。欅だ。枝を広げて、芝生に柔らかな陰を落としている。
鼻歌まじりにどさりと腰をおろした彼は、私にサンドイッチを差し出した。
「これ、あそこの一番人気」
粗挽きのコショウが効いていそうなパストラミポーク、みずみずしいレタスとオリーブが、天然酵母のカンパーニュのパンにサンドされている。
お礼を言いがてら受けとると、彼に遠慮して少し離れた場所に座った。自分の分を確保した彼はあいかわらず鼻歌を歌いながら食べ始める。とても美味しそうに食べる様子につられて、私もサンドイッチに口をつけた。その瞬間、素朴な小麦の香りとともに、素材のみずみずしい味が広がった。
「おいし……!」
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