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「本当はあんたも招待したかったんだけども」
藤村末吉はそう言って短く刈り込んだ頭を掻いた。
「私はいいですよ。あんな高級ホテルでディナーなんて、着ていく服にも困っちゃいます」
倫子は笑いながらそう言って、ワイシャツに糊を効かせてアイロンを掛けた。末吉はハンガーに吊るされたスーツを感慨深そうな顔で見つめていた。
「長かったような、短かったような…」
「アルテミスホテルにいらっしゃる前は、東京のホテルだったんですよね」
「ああ。慶子の容態が悪くなって、こっちに戻ってきたんだ。もう、あいつが死んで五年も経つんだなあ。あんたに身の回りの世話をして貰って、本当に助かる。私は、料理以外何も出来ない男だからね」
末吉はそう言って薄く笑った。今日で退職するという朝だけに、色々な思い出が去来しているのだろう。
「はい、出来ました」
倫子はまだ温かいワイシャツを末吉に手渡した。
「早いものですね。こちらに来た初日を思い出しました。私、藤村さんがシェフだって知らなかったから…。昼食にハンバーグを作ってダメ出しされましたよね」
「そんなことあったかな」
「ええ。それ以来、こうしてこちらに来ては少しずつ料理を教わって。おかげさまで、主人にも子供にも評判なんですよ」
倫子はころころと笑った。そんな倫子を見て、末吉も目を細める。
「さあ、そろそろお時間ではありませんか?」
彼女が腕時計を見ると、十二時になろうとしていた。
末吉は椅子から立ち上がろうとして、腰を抑え顔をしかめた。咄嗟に手を差し出した倫子に、大丈夫だと手を横に振る。
「最近腰の調子が悪くてね。…実は、綿貫さんに頼みがあるんだが…」
末吉は真剣な表情で、じっと倫子の顔を見つめた。
「何でしょう?」
倫子が首を傾げる。
「あんたに預かって欲しいものがあるんだ」
そう言って末吉は、漆塗りの書類箱を倫子に手渡した。
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