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ピアノの音色が響く中、公平は百合子の質問攻めに合いすっかり辟易していた。斜め向かいに座った有朋を見れば、我関せずと優雅にナイフとフォークを操っている。ここでようやく公平は、今夜有朋が自分を誘った意味を知った。
「本日はありがとうございます。相楽様」
テーブルに挨拶に回ってきた総料理長の藤村末吉は、百合子に深々と頭を下げた。
「まあ、藤村さん。引退されるなんて嘘でしょう。人生は六十を過ぎてからが本番ですのよ。今日のお料理もとっても素晴らしかったもの。ねえ、公平君」
百合子に同意を求められ、公平は藤村を見た。小柄な男で、白髪交じりの髪を短く刈り込んでいる。皺の刻まれた顔が、長い間責任のある仕事についていた誇りと自信にあふれ、そして今夜、その職を辞すという感慨に満ちていた。
「正直フランス料理とかよく分からないんですけど、とても美味しかったです」
「ありがとうございます」
深く頭を下げられ、公平は逆に恐縮する。
「どこかお悪いのではありませんか?」
それまで黙々と食事をしていた有朋が突然口を開いたので、全員の視線が集まった。
「さすがは大病院の息子さんですね。…分かりましたか。実は立っていられない程の痛みを腰に感じる時がありまして。それで職を退く決心をしたのです」
藤村は体の不調を口惜しげに話した。
「まあ、そうだったのですか。知らなかったわ」
「いいえ。こうして最後に皆様にお運び頂き、私は幸せ者です」
うっすらと目に涙を浮かべ、藤村は再び頭を下げた。
「どうぞ仁科院長によろしくお伝え下さい。それから、倉持先生にも」
「はい」
有朋は軽く頷いた。
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