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僕、樋口公平が仁科有朋と初めて会話をしたのは、僕がまだ人の死というものに直面したことのない幼少の頃だった。病気がちな母を見舞うため、毎日病室に顔を出し、兄が学校を終えて迎えに来るのを待っていた。四人部屋の窓際に母はいて、いつもゆったりと微笑んでいた。
今思えば、自分の死期を知っていたのだろう。僕の頭を撫でて、お父さんとお兄ちゃんの言うことをよく聞くようにと口癖のように言っていた。
病室に退屈すると僕は外へ出て、ゴムボールを裏庭のブロック塀に当てて遊んだ。大きな桜の木が等間隔に連なって、そこにベンチが据え付けてある。
来院した人が休憩したり、入院患者と見舞い客が談笑したりしていたが、その中に自分と同じ年頃の子供が、大きな図鑑を開いているのが見えた。顔のサイズには大き過ぎる眼鏡を掛け、周りの音も聞こえてはいないようで難しい顔をしている。声を掛けようかと一歩近付いた時、パジャマにカーディガンを羽織った老婆が、彼に声を掛け白いケーキの箱を渡した。彼は少し困ったように笑って、それから軽く会釈して箱を受け取った。
「さっきのおばあちゃんから、なにもらったの?」
僕は彼に話しかけた。
「ああ、これ。…うん」
遠視用の眼鏡から、彼の巨大な瞳がこちらを見た。
「いらないの?だったらぼくにちょうだいよ」
僕はぶっきらぼうな調子でそう言って、彼の隣に座った。
「うん…」
彼は煮え切らない返事をした。僕はもったいぶった彼の返答が気に入らなかった。
「なんだよ、みせてよ」
そう言って強引にケーキの箱を引っ張った。
「あっ」
ケーキの箱は手からすり抜けて、ぽとりと地面に落ちた。箱から中身がこぼれ出す。
「ごめん」
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