黒松 1

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「今日は何の用だ、由乃」  藤村末吉は応接間に入ってきた、甥の藤村由乃を見上げた。 「こんばんは、叔父さん。」  彼は途中どこかで飲んできたのか、フラフラな足取りでダイニングテーブルに近付くと、 ニヤニヤと笑いながら椅子に座る。脂ぎった髪が顔に纏わりつき、胡乱な目で末吉を見た。 「ホテル辞めちゃったらしいですね。もったいない」  そう言って下品な笑みを浮かべた。 「お前には関係ない」  末吉は甥を一瞥すると、また視線を磨いていた皿に戻した。 「給料良かったんでしょ。これからの長い人生、どうするんすか。老後にはまだまだ、早すぎるでしょう」  呂律の回らない口でそう言った。 「お前こそ、今どこに住んでいるんだ」  末吉が訊くと、由乃は大声で笑い出した。 「はははっ、俺のことなんか興味ないくせに。…あんたはそうやって、一日中ずーっとバカみたいに皿ばっかり磨いてんだよ。料理人を辞めても皿を磨いてるなんて、何かに憑かれているとしか思えない」  由乃はテーブルに頬杖をついて、嘲るように喉の奥で笑った。  末吉は唇を噛んで、甥を見た。  いつからこうなってしまったのだろう。 由乃は末吉の兄の子で、夫婦二人で経営していた割烹料理屋「よし乃」の屋号をとって名付けられた。年取ってからの子供ということもあり、一人息子は溺愛された。 両親が交通事故で死んでから、彼の面倒は末吉が見てきた。しかし、ホテルの料理人とは世間の人々とは全く違うサイクルで動いている。盆、正月、ゴールデンウィーク、クリスマス。このどれ一つとして、由乃と一緒に過ごした記憶がない。 小さな由乃とキャッチボールをしたことも、学校の行事に参加することも無く、何ひとつ自分の手を掛けずに育てた代償がこれなのかもしれない。 「あんた覚えてるか?小学生の頃、俺が間違って、大事な花瓶を割った時のあんたの顔ときたら、忘れらんないね。怪我をした俺なんかそっちのけで、あんた俺を突き飛ばして怒鳴ったよな。あれが本性なんだよ。食器にとり憑かれたあんたの…」
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