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その日の私はどうかしていた。
ドラムビートの低音が防音壁を揺らして、足下から胃を穿つ。
空気が小さく耳元で鳴って、閉じた瞼の向こうで音が踊っている。
響くリズムのせいか、体のバランスがとれない。
大きく深呼吸して、頭の芯をはっきりさせようとする。
汗。
体臭。
香水。
いろいろ混じり合った匂いがする。
スモークがたかれているのか、それとも人の熱気なのか。
目を開けても霞んでいるみたいだった。
その視界の向こうで、スポットライトを浴びて誰かが歌っている。
なんのライブなんだろう。
コンクリートがむき出しの壁で体を支えながら、漠然とバンドの記憶をたどるけれど、どれにも当てはまらない。
曖昧さを振り払おうと手を握りしめると、手の内のペットボトルが乾いた音を鳴らした。
そういえば1ドリンク制だって言われて、コインと引き換えにもらった記憶がある。
口をつけると、ぬるくなったジンジャエールが舌にまとわりついた。
こういう場所で頼むのは、いつもビールだったはずなのに。
そんなたやすいことさえまともにできない?
私の前には、揺れる無数の頭とステージに向かって伸びるたくさんの腕。
天井に突き上げられた腕の群れを見ていると、気分が悪くなってくる。
横を見ると、私と同じように壁に寄りかかる人が生温い視線を前に送っている。
その先に青く照らされたステージがあって、バンドが演奏していた。
4、5人くらいだろうか、中でもセンターに視線が縫いつけられた。
まっすぐな視線でライブ客を睥睨するヴォーカルがいる。
姿を認めたとたん、漠然と体に流しこんでいた音が、洪水のように迫ってきてクリアになった。
魂をねじきるような強引さと濡れたセクシーな声。
まだ少年のような青年のような若い男性の。
なぜかなんて分からない。
ステージとの間には縦に横に揺れる群れが広がっているのに、ただそのヴォーカルの呼吸すら、すぐそこから聞こえてくるような錯覚。
ヴォーカルの声が、言葉が、仕草が絡みついてくるみたいだ。
身をまかせて目を閉じると、酔いが体の細胞を浸食していく。
もっとそばに行きたい。
触れたい。
壁から身を起こして、目の前に広がる黒い揺れの中に体を押滑りこませた。
知らない人の肌が密着する。
足元もおぼつかない。
とても熱い。喉が渇く。
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