第1章

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 初老で白髪の目立つ主治医巧沢はそう告げた。「記憶に関する分野は私の専門外ですけれど…」と弱気な口調ではあったが。これといった治療法も無く、普段通りの生活を送ればそのうち少しずつ記憶を取り戻すという。無責任な診断に思えたが、心の問題というのは難しいものらしい。 「何ともなくてよかったね」  柔らかな微笑を向けてくる水透。そのおめでたい様子に火冴は心底呆れた。  診察を終え、二人は帰路についていた。 「どこが、何ともないのよ。このまま一生記憶が戻らない可能性だってあるのよ」 「そのうちきっと思い出すよ。火冴ちゃんもいてくれるし、私は心配していないよ」  きょとんとした顔で言う。  どうも、調子が狂うのである。いつもギャーギャーうるさくて口が悪くて余裕たっぷりで火冴をいじくりまわす水透とは、まるで別人のような物腰の柔らかさなのだ。というより天然ボケだ。 先ほどなど、「火冴ちゃんて良い名前だよね」と言われて一瞬、耳を疑った。初対面のときから水透は「放火魔みたいなヘンな名前」と火冴をからかい、その度に殺意を覚えたものなのだから。 「それより、私のこと、聞かせてくれないかな? 火冴ちゃんの目から見ての印象でいいから。火冴ちゃんとは長い付き合いなのだろうけど、私、全然覚えていないから」 「長くはないわよ。あんたが、藤嬢家で暮らし始めて三年も経ってないもの」 「え? それって、どういうこと?」 「あんたはオヤジの愛人の子。私たち、腹違いの姉妹なのよ」  現実味の無いセリフだな、と火冴は思った。実際、父親から「愛人との間に隠し子がいる」などと聞かされたときには昼メロドラマの話題かと錯覚したくらいだ。 更に呆れたことに隠し子はもう一人いて、その彼は水透と誕生日が十日と変わらない。つまり父親は、妻とは別の二人の女性とほぼ同時に『関係』をもったということだ。奔放な父だが、そこまで人間失格なヤツだとは思わなかった。  ところで、子供の命名は全て父親のセンスである。彼は自分の子が生まれた曜日から名前を考える傾向にあった。火冴はいつも、火曜日に生まれた不幸を呪うのだった。この妙ちくりんな名前のせいで何度バカにされたことか。  異母兄の名前は「月路」というらしい。火冴や水透に比べるとずいぶんとまともな名だ。
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