第1章

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 火冴は怒っていた。水透が目覚めてホッとしたのと同時に、人の気も知らないでさんざん迷惑かけまくって自分をこんなにも動揺させた姉のことが急に腹立たしく思えた。その上、起きた途端、「ココハ、ドコ、私ハ、ダレ?」とほざきやがった。毎晩付きっきりで看病して、体拭いて着替えさせてやったのに、そんな火冴のこと、その他諸々を全く覚えていないというのだ。  ふざけるな。一週間前に何があったかは知らないけど、勝手に記憶喪失になんかなるんじゃないってのよ。火冴は頬をふくらませていた。  対する水透は体調が悪いせいもあり、静かで、少し不安気な様子だ。  弱々しくて、儚い。こんな姿を見るのは初めてだった。別人みたいだった。 「ねえ、私、大丈夫なのかな?」 「そんな捨て犬みたいな目で見るな。全く情けないな。あんた本当に水透なの?」  今、少女らは病院に向かっている。歩いて四十分くらいのところに、藤嬢家の主治医を務める巧沢の医院があり、そこで水透の頭を診てもらうのだ。  十二月中旬。道の脇には雪だって残っている。寒さが身に染みた。  火冴は濁ったねずみ色の空を見上げて軽く身震いをした。彼女の目に映るのは、冬枯れですっかり禿げあがり、その上に薄く白化粧を施されたかつての稲の道と古く無秩序な瓦屋根の町並み。いつもの故郷の風景だった。  登美耶麻は日本海側に位置する自然豊かな町である。3千メートル級の峰々に降り積もった雪は清流となって土壌を潤し、漁業が盛んな登美耶麻湾へと注ぐ。海面に淡い光を放って現れる蜃気楼は観光の目玉となっている。江戸の時勢には百万石を誇り、売薬などの独自の産業や北前船による物資交流も盛んになり、近代城下町として栄華を誇った歴史をもつ。豊富な水に恵まれることから、稲作を中心とした農業のほか、河川の電源開発とそれを活用したアルミ関連産業が盛んで、近県屈指の工業生産を誇る。  水透は北国であるここ登美耶麻生まれのくせに平地に積もる雪がいかにも珍しいという風にシャリシャリ踏んで子供のように目を輝かせていた。火冴に「もたもたしないの!」と怒られていた。  田舎道を数分歩いたところで、火冴は振り返り、形の良い眉をひそめて、真顔で問うた。 「水透、本当に、からかっているんじゃないでしょうね?」 「ホントよ」  はあはあ、と息を切らせて、水透は前方の火冴を見据えて答えた。
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