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「私、本当に自分が何者であるか、さっぱり覚えていないの」
「これで「冗談♪」とかほざいたら承知しないわよ」
普段から、水透は火冴をイジクることが楽しくて仕方ないというヤツだった。数日間昏睡状態を装い、憐れな記憶喪失の姉を演じ火冴を騙し、後、「ドッキリだよぉぉぉん!」と言い放ち『大成功!』のプラカードをかかげ、大笑いでバカにする。そして、三日はそのネタでからかう。それくらいはやりかねない女だった。油断はならないのだ。
「全く、水透はいつもいつも」
火冴はぶつぶつと呟いた。
「あの、火冴…ちゃん?」
「なによ?」
水透の呼びかけに、火冴はぶっきらぼうな口調で応じた。
だが内心、ひどく驚いていた。『ちゃん付け』で呼ばれたことに。初めてそう呼ばれたのだ。照れくさくて、くすぐったくて、ヘンな気分だった。
妹の強い語調に怯みつつ、水透はおずおずと口を開いた。
「私のこと呼び捨てなんだね。起きた時は『おねえちゃん』と呼んでくれていたようだけれど」
姉の指摘に、火冴の顔がカアーと赤くなった。そうなのだ。初めて口からもれた不覚の一言。記憶の無いコイツに聞かれていたのだ。
妹の心中などいざ知らず、水透は不思議そうな顔をして、続ける。
「確か、私が目覚めたときに、「もう、生意気なこと言わない。これからはお姉ちゃんって呼ぶから」と言って、泣いていたよね?」
恥ずかしい。火冴はこの場を逃げ出したくなった。頬が熱い。水透をまともに見られない。
心細さで混乱していたとはいえ、なんて情けない事を口走ってしまったのだろう。
「う、うるさい、だまれ。それ以上言うと殺すわよっ!」
「ごめんなさい」
イジケたような怖い目で睨まれて、水透は素直に謝った。今のところ頼れるのは火冴だけだ。つむじを曲げられるとまずいのだ。殺されるのもイヤなのだ。
だが、火冴が肩をいからせて前を歩く様を見て、水透は、思わず笑いがこみ上げてきた。
彼女がいてくれて本当に良かった、と水透は思った。水温の高いプールに漂っているようなあやふやな眠りから浮き上がって、目を開けて最初に見たのが火冴だった。取り乱し、抱きついてきて、声をあげて泣く小さな女の子。とにかく驚いて、記憶が無いうんぬんを実感する間もないまま、なだめていた。おそらく姉が大変なことになって、普段は押し隠している素直な感情が溢れだしてきたのだろう。
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