第1章

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水透は記憶喪失という割にそれほど混乱してはいなかった。もちろん不安はある。だが、よくあるTVドラマみたいに見知らぬ土地に一人でほっぽりだされたわけではない。名前も年齢も分かっているのだ。それに、私はワタシのことを覚えてないけど、ワタシのことを知っていて私のために泣いてくれる人が近くにいる。こんな心強いことはない。 「な、なに笑っているのよ、気持ち悪い」 「なんでもないよ」  火冴の隣に並んで手を繋いだ。振り解こうとしても、離さない。  やがて、諦めたのか、火冴はそっぽを向いて歩き出した。  可愛いなあ、と水透はその端正な横顔をなんだか幸せな気分で眺めていた。 2  制服である白ワイシャツに袖を通しながら、朝川佐助は厨房に足を踏み入れた。無地のエプロンを胸に当て紐を結びつつ、彼は自分の背丈ほどの分厚い業務用冷蔵庫の中をのぞきこんだ。  レモンとパセリが一袋ずつ、キュウリが3本ほど不足しているので補充することにした。この暑さだ。野菜類の鮮度が落ちないように気をつけよう。夏場の時期は温かい飲み物を頼むお客さんは比較的少ないから、これ以上コーヒーを沸かす必要は無いだろう。逆にコールドドリンクは多めに、だ。ゴミ袋を取り替えておこう。食器類の洗いものはとりあえず無し、と。  OK。チェック終了。 「佐助くーん、ハンバーグこねるから玉ネギ8個ほど剥いて、みじん切りしといて!」  住居部から真知子の声が響く。洋食屋であるこの店『パストラル』のマスターの奥方だが、「奥さん」と呼ぶのは団地妻との不倫みたいでイヤラシイので、バイトはみんな親しみを込めて名前で呼んでいた。 そのマスターが六月末に胆石を患い入院してしまい、ここ一ヶ月は一人で店を切盛りしていた。若々しいとはいえ、もう四十近くだ。最近、やつれたようで佐助は少し心配だった。  学校が早く終わったので、彼は定時の一時間前に来て夜のぶんの仕込みの手伝いをしていた。無論、ボランティアだ。  外はいい天気だ。お決まりののど自慢のようなセミの声。陽光で焦げたアスファルトの匂い。風鈴をチリンチリン揺らす生温かいそよ風。プール道具一式の入ったビニール地の袋を抱え、帰り道をはしゃぐ濡れ髪の小学生たち。 いつもの何気ない光景。日本海側特有の湿度の高い、汗ばむじめじめとした夏がそこにあった。 そう、夏は、始まったのだ。  
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