第1章

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と思いながら沙希の声に叩き起こされていた幸福な一時期の感情が一度期に溢れてきて、僕は再び混乱に呑み込まれていった。  幾つかの国家機関と、その関連組織が入居しているこのビルは、その立地に相応しいオフィス街に無機的に佇んでいた。今日が祝日ということもあり街は閑散としていた。大体祝日に呼び出しをかけるとは、最近の公共機関はどこまで民営化したのだろう。勿論その功罪についての各論は華々しく時事放談とかでやっているのを見かけるが僕には興味のない話だ。何れにせよ、安全局への直通電話に誘導される形で、そのビルの通用門を潜った。潜るのは、得意の分野だ。  指定された14階でエレベーターから降りると、如何にもという堅い感じのグレーを基調とした廊下の突き当たりに、その会議室はあった。 第3会議室の扉をノックする。中から「どうぞ」の声。 面接管が女性だったのは、少し以外だった。ネームプレートには、『厚生安全局主査 橘 安奈』とあった。  橘? それにしても、役職名と名前のアンバランスに、思わず口が歪むのを止められなかった。「橘 安奈」って、どう考えても違う業界を連想させる。しかもいわゆる美人。 やれやれ。 また面倒な事に巻き込まれる予感がした。  人気のないオフィスは、息を潜めて僕を迎え入れた。そして、彼女もまた、無表情に近い透き通る声で、僕を向かいの席に誘導した。僕は、彼女の手元にある資料に目を落とした。それは他ならぬ、僕のプロファイリングだった。何時から僕はこの機関にマークされていたのだろう。それにしても、僕が国家機関からマークされる理由が見当たらない。地方大学の下請け的な研究室で、決して陽の目を見ることはなさそうなデータの蓄積と分析の日々。ただそれを大学のデータベースに登録することを何年にも渡り続けてきた。そんなただの研究員である僕は、世の中との接点さえ見失いかけていたというのに。すべての鍵は沙希の失踪にあると思った。オフィスから眺める夕焼けに、富士が微かにうかんでいた。  僕が指示された椅子に座ると、橘調査管は真っ直ぐに僕を見つめながら何かを語り始めた。その眼鏡ごしに見える彼女の目は、蓄積された疲労を滲ませていた。緩やかに動き出した唇は独立した生き物の様に見える。透明感のある粘液に包まれた魅力的な生き物はルージュ色をしていた。
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