第1章

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「橘 安奈と申します。本日はご足労いただきありがとうございます。」 「…」  僕は目で応えるのがやっとのことだった。  僕は人見知りが半端じゃないんだ。子どもの頃は、母親の影に隠れてやりすごしていたが、今は辛くても一人でこの緊張に耐えるしかない。握った手には汗をかき、心臓の鼓動は部屋中に谺してるような気がした。  僕は、唯一寛げる研究所のあの部屋が好きだ。もし面接が続くようなら、そちらから出向いてくれると有難いのだが、それを言える頃には、多分僕の人見知りは治まっているだろう。 やれやれ 酒場  厚生安全局での面接内容についての記憶がない。あまりの緊張状態から、相手の話を理解することさえできなかったらしい。ただそんな中で一つだけ覚えているのは、彼女は沙希の姉だということだった。外見はほとんど似ておらず、連想出来ぬまま、しかし橘という名字に奇妙な引っかかりを持っていた僕に残った記憶は、安奈は沙希の姉、しかも遺伝子の異なる姉妹ということだけだった。安奈が母親、沙希が父親の遺伝子を強く受け継いだらしい。そして安奈は、僕についての情報をかなり掌握していた。  僕らは国家機関の入ったビルを出て、黒塗りの公用車で渋谷に向かった。繁華街の地下にその店はあった。  彼女の属する機関の馴染みの店らしく、マスターの行動も馴染みの客に対するものだった。 僕らはカウンターを避け入り口寄りの離れたボックスに座った。橘調査管はカウンター越しにマスターに向かい、ターキーのロックを二つオーダーした。僕は出来ればブランデーが呑みたい気分だったのだが… 「先ほども、お話させていただいたように、貴方の研究室に沙希が派遣される前から、私たちは貴方及び貴方の研究室を追跡していました。」 という安奈の言葉に、そんな話があったのかと内心記憶を辿りながら僕は耳を傾けていた。 「それは貴方の調査内容に興味を持った私達の省内のある人物が、特別な部署を内密に作ってまで調べようとしたという事です。そこでわざわざ本日は、祝日にも関わらず、ご足労いただいたという訳です。」  なる程、一つの疑問が解けた。僕は一杯目のグラスを飲み干すと、次は自分でマスターにバドワイザーを注文した。それはあまり酔えない話の進み行きを考えての判断だった。別に遠慮したわけではない。
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