第1章

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 彼女は、舐めるようなゆったりとしたペースでグラスを傾けながら話を続けた。僕はただ何となく、気になって仕方のないルージュ色の生き物とその開いた衿元あたりを現実感覚の欠如が進む酔いに任せて見つめていた、何となく、緊張が溶けて行くのを感じながら。 「本来私たちや農水関連の貴方の研究に、意外な部署からのアクセスが増えてきているのをご存知?」 「僕は、貴女の機関からのアクセスでさえ、まだ呑み込めていません」 と、昔からバカ正直症候群の僕は率直に答えた。というか、僕は自分の調査の意味さえろくに知らないまま、今の研究室で与えられた仕事を続けてきただけなのだから。  彼女は話を続け、僕は3杯目にうつった。 「つまり、生物利用ないし生物模倣技術が、昆虫の生態系に恵まれた我が国の、次期基幹産業となって、農業革命や医療革命に繋がる可能性があるのだけれど、その意味で私たちや農水も関心を持ってきたわ。」  僕が黙っていると、彼女は続けた。 「このバイオテクノロジーとバイオメティクスは、これまでの石油依存的な社会を根底から変えていく力さえある貴重な研究分野だから、国も優先的研究として補助してきたの。」  僕は、次第に遠のく現実との接点を意識し、これは困ったことになったと考えていた 「その一つが貴方の研究室で行われている調査に基づいている研究という訳。」  僕は、冷や汗をかきながら、ルージュ色の虫を見ている。透明な粘膜に包まれた虫は、何かの幼虫だろうか。 「その貴方の研究に意外な機関が関心を示し始めているの。防衛局が…」 ホテル新宿  目が覚めると、見覚えのない部屋のベッドの中にいた。何故此処にいるのか記憶がない。しかも裸。何があったのだろうか。耳を澄ますとシャワーのコックを捻る音が聞こえてきた。僕がそちらの方に意識を向けると、焦点の定まらぬ中に沙希がいた。彼女は、僕が起きている事に気づいていないようだ。鏡に向かって立ち、身体を拭いているように見える。 白い靄の向こうに沙希がいた。  彼女は着替えると、部屋の中央にあるソファに座り、焦点の定まらないような目を僕の方に向けた。その表情は、どことなく悲しげだった。僕が知るあの天真爛漫な中学生みたいな沙希はどこに行ってしまったのだろう。そこにいる沙希に笑顔は戻るのだろうか。そのためなら僕はピエロにだってなる。あの笑顔が見れるなら。 「先生。」
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