第1章

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 「娘さん、お名前はなんて仰るのですか?」  娘は、本堂の畳床を、前屈みになって雑巾で拭きながら、元気良く答えた。  「はい、友美といいます。御信徒さんは、なんて仰るのですか」  「僕は、乾と申しますが……」  乾は、本堂の中の御本尊を見上げて、少し怪訝そうに訊いた。  「こちらのお寺の御本尊は、お地蔵様なのでしょう?」  友美は、顔を上げて御本尊のほうを少し見上げると、言った。  「ええ、そうなんですけど、宗派の御本尊はお釈迦様なんです。宗派の御本尊と、お寺の御本尊が異なるんです。もとは、この寺は麓の寺に属する地蔵堂だったそうですが、火事で何度か焼け、鎌倉時代に、地蔵堂だけをこの地に移転し、寺院として独立させたそうです」  乾は、その地蔵菩薩立像の御尊顔を改めて拝観した。満月のように白く塗られた玉顔は、長年の埃で少し煤けていたが、その慈愛に満ちた崇高さは威厳すら感じさせるものであった。  「ほう、開山は何年なのですか?」  娘は、雑巾拭きの手を止めて答えた。  「正確な年月は判らないですが、本院のほうは奈良時代の初め、行基菩薩様の開山と伝えられております。こちらの地蔵堂が独立したのは、この地方の当時の守護の夢見によるためだと聞きます」  乾は、娘の衣服がジャージであるのに気付いた。  「ああ、そうなのですか。歴史はあまり詳しくないが、由緒ある古刹なんですね。……私も、ここのお地蔵様に救われたんですよ。それで、毎週、参拝しているのです」  娘は、驚いたような笑顔を見せて言った。  「あ、そういう理由があったのですね。……しばしば参拝されるので、どういう経緯があったのか、気には成っていたんですよ」  乾は、少し話しすぎたことを厚かましく思われないかと危惧して、立ち去ろうとした。  「長話に付き合ってくれて、どうもありがとう。また来るよ」  友美は、本堂から出て行く乾を見送り、笑顔で言った。  「乾さん、花祭りも是非居らしてください。お待ちしています」  乾の脳裏に、その友美の明るい笑顔が焼き付いた。  「……ありがとう」  乾は、少々名残惜しく思いつつ、ソメイヨシノの三分咲の境内を後にした。
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