第1章

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 入口のカウベルが鳴った。今日3人目のお客さんだった(わたしたちを含めてね)。すらっとしたスタイルの女の子だ。年は14、5くらい、色白の肌、左目下の泣きぼくろが妙に大人っぽい。肩できれいに切りそろえられたストレートの髪がお嬢様って感じだ。 「やあ、千里ちゃん、いらっしゃい。アイスコーヒーでいいよね。今日はリストかい? それともショパンの練習曲がいいかな?」  マスターは早口で薦める。どうやら彼女は常連さんのようだ。 「ごめんなさい。今日はちょっと急いでいて。これ、前に借りていたカラヤン指揮のニュイヤーコンサート。とっても良かったわ、ありがとう。」  彼女はLPレコードを差し出した。 「そうか、また来てくれよな」 「うん、それじゃあ、いい曲があったら今度貸してね」  手を振って、彼女は出て行った。 「……あの人知ってる。片野坂千里さん。確かうちの中学の2年生だよ。おじさーん、駄目だよ中学生に手をだしちゃ」  けいちゃんがちゃかす。 「馬鹿! 千里ちゃんは……知り合いの娘なんだ。昔、ピアノを教えていたこともあって、この店開店時からの馴染みなんだ」 「あ、赤くなった。怪しいなあ」 「大人をからかうな。ちょっと……可哀相な娘なんだ」  マスターはLPレコードをしまい、胸元から煙草を取り出した。それから悲しげに呟いた。 「ピアノが好きだけど、千里ちゃんはほとんどの曲を最後まで弾くことができないんだ」  片野坂千里さん。彼女は物心つく頃からピアノを始めた。熱心な努力家だったそうで年を重ねるにつれ、めきめきと上達していった。確かな技術はもちろん、穏やかな彼女の性格から来る表現力はマスターも目をみはるものがあったと言う。 しかし、彼女のピアノには致命的な欠陥があった。いや、彼女の体質にと言うべきか。彼女の左手には先天的にマヒの症状が現れる。日常的には何の問題もない。だが、ピアノを弾くと決まって左腕が動かなくなる。最初は普通に音を出せるのだが、曲による誤差はあるものの、いつも弾き始めてから約5分後に左手が硬直する。時間にするとほんの数秒だ。しかし、芸術性を重視するピアノ曲、特にコンクールなどではその一瞬の間がマイナス要因となる。音楽を志すには辛い体だった。
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