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「ピアニストになることが千里ちゃんの夢なんだ。でもそれが適わないことは彼女が一番よく解かっているはずだ。でも、いつも明るく振舞うあの娘を見ていると、なんだか切ないよ」
マスターの話を聞いて、わたしたちは押し黙ってしまった。騒いでいたけいちゃんも神妙な面持ちだ。
「おいおい、深刻な顔をするなって。大丈夫。千里ちゃんは本当にピアノが好きなんだ。今じゃただ弾いているだけで、満足なはずさ。一流のミュージシャンになることだけが、音楽ではないんだよ」
そうだけど、片野坂さん、本当は最後まで自分の好きな曲を弾きたいのだろうな。
「……出よっか、きょーこ」
けいちゃんが立ちあがった。さすがに賑やかなけいちゃんは、この重々しい雰囲気に耐えられなくなったのだろう。
「うん、マスター、ご馳走様。また来るからね」
「たまにはケーキでも頼んでくれよ」
タダ飲み娘たちにマスターが不平を洩らした。
「奢ってくれるならね」
けいちゃんはいたずらっぽく笑った。
3
店を出ると、夏の日差しが容赦なく照りつける。目を細め太陽を見上げるわたしをけいちゃんが手招きした。
「……ねえねえ、あれ見てよ。怪しい奴がいるよ」
横窓から喫茶店内を覗き見ている男。夏なのにトレンチコートを着て、ご丁寧にサングラスまでしている。あからさまに怪しい。
わたしたちの視線に気付いたようで、彼はこちらを見やった。その顔を見てわたしは唖然とした。
「千太郎さん!」
何でこんなところに? 慌ててわたしは駆け寄った。
「杏子ちゃん…・」
突然、知り合いに声をかけられて千太郎さんも驚き顔だ。
「何しているの、こんなところで!」
「え? な、何でもないよ」
何でもないならドモるな。絶対、神己会がらみだ。
「きょーこ、この人は?」
けいちゃんが近づいて来た。睨みつけるように千太郎さんをなめつける。
「あ、ええと、こちら従兄の里見千太郎さん。お金が無いもんだから喫茶店を羨ましそうに見ていたんだって」
「そ、そうなんだ。こんにちは深山さん」
けいちゃんは怪訝そうな顔をした。
「……何でわたしの名前を知っているんですか? 初対面なのに」
「あ、え、そ、それはわたしがよくけいちゃんの噂をしているから。すごく素敵な友達がいるんだよって」
うかつな千太郎さんのフォローをわたしはした。
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