第1章 業苦の鬼

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 〔1〕  水晶の輝きを放つ満月が、忌まわしき光景を照らし出す。  頬を撫でる五月の夜風は、芳しき新緑の香りではなく生臭い血の匂いを運んだ。  今宵、四百年の血脈を持つ一族が滅びの宴を催した。招かれざる客は、饗宴の佳肴にされないように、身を守らなくてはならない。  鎧塚康則(よろいつかやすのり)は、黒縁の眼鏡を外し学生服の内ポケットに仕舞うと、左手で癖のある前髪を掻き上げた。  周囲に油断無い視線を走らせ、血塗られた石畳に一歩を踏み出す。  嫌な匂いだ。現場を何度も経験し、凄惨な死体は物として認識するようになった。  だが、この匂いには慣れることが出来ない。  ウエストバックからタブレットケースを取り出し、多めに口に放り込んで噛み砕く。これで少し、マシになった。  先鋒隊からの連絡が途絶えて、十分経った。警備システム破壊は成功したようだが、生存者の気配が全くない。無事なのか?  数歩も進まないうちに喰い千切られた腕が、足が、内臓が、行く手を阻む。白く浮かび上がる細い骨は、女のものだ。  部隊の者ではないようだ、おそらく使用人だろう。 「綺麗好きのアイツが、嫌がりそうだな……」  血と泥と脂の塊にタクティカル・ブーツを沈めながら、苦笑をもらした。  月を背に影を作る、荘厳な造りの薬医門。  見た目は重要文化財の価値ある歴史的建造物でありながら、厳重な監視システムを装備し、内部に鉄鋼と強化セラミックスが隠された強固な正門である。  その影から月明かりに身を晒した康則は、足場を選んで母屋正玄関に走りながら背に担う鞘から刀身を引き抜いた。  石畳に沿って整然と刈り込まれた柘植の影から、皮膚が粟立つほどの殺気。 「そこか」  康則の上背ほどもある柘植の枝葉を突き破り、太い二本の腕が飛び出す。  危うく頭を掴み取られるところを左にかわし、二尺七寸の刃を払い上げた。 「ギィヤァァッ!」  獣の咆哮と共に、丸太のような二本の腕が、紫紺の空に舞う。  雨のように降り注ぐ血飛沫が、生け垣を染めた。  深紅の幕を突き破り、現れたのは醜悪な形相。  眉間を貫く鉤爪状の黒い角が、映り込んだ月の光を歪め毒々しい輝きを放つ。  赤土色の顔には、まだらに苔の紋様。ひび割れた皮膚からは、膿のような粘液が滴っていた。  剥き出された双眼が、ぐるりと回転して康則を捕らえる。
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