気づきはじめた男

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“手の届かないところに行っちゃうんだから” 半ば吐き捨てられたようにも感じられるそのセリフで、あの日俺は我に返った。途端、自分が口にした言葉の重みを感じた。 一番だなんて、事実でも言うべきではなかったかもしれない。 いつか来る別れに耐えられるように、そのとき、心置きなく離れることができるように。今から俺たちは、心の準備をしておかなければならない。 俺より由宇の方が、そのことをずっとわかっているようだった。 「そんな日が来るのかー」 「次長?」 資料右手に椅子に腰掛けたまま、窓の外に目を向ける。 案件を持ってきた橋本が、そんな俺を怪訝そうな目で見ている。 「結婚ねえ…」 「どうかされたんですか?さっきから」 「橋本。お前さ、結婚したいと思うか?」 「…それ、セクハラだと思いますけど」 氷点下にも勝る冷たい視線を俺に投げかけ、大理石の床にけたたましくヒールの音を響かせながら橋本は出て行った。 「結婚って、大事か?」 一人残された部次長室で、タバコの紫煙と一緒に溜め息を吐き出し、由宇との記憶を手繰り寄せる。 出逢った日、別れた日、再会した日、今の関係が始まった日、エトセトラ、エトセトラ。それぞれを記念日と呼べば聞こえはいい。 だが、実際は違う。今の関係を正当化できない俺たちにとっては、全てが間違いの素。 由宇には、魅力があった。初めて会ったあの日、まだ高校二年生だというのにその体からはどこか大人の色香が感じられた。 瞬時に記憶を巻き戻す。自分の時代はどうだっただろう。こんなに目立つ女の子はいただろうか。 浮かぶのは俺を追いかける女子集団。中に一人強烈な女子がいた。猪突猛進という言葉が怖いほど似合う子だった。 正直、高校時代はあまりいい思い出がない。こんなことを言えば一般男性からは批判を浴びるだろうが、とにかく興味がない子や苦手な子にもモテた。好みの子ももちろんいたが。 時代が時代だからファンクラブもあった。廊下を歩けば、一度も話したことのない女子から声をかけられることも日常茶飯事だった。 だから、あの頃に戻りたい症候群には生憎お世話になったことがない。良い思い出がないから、という理由だけではない。俺はいつでも今が一番だと思って生きている。人生を後悔したことがない。これから先もすることは、きっとない。
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