第六幕 上手の猫は爪を隠す

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第六幕 上手の猫は爪を隠す

 エミリは憤慨していた。  G016に逃げられただけじゃない。  探していたら、見知らぬ大学生ぐらいの男性に声をかけられた。いつものことだと無視しようとしたら、 「あの、神山って人からの伝言なんですけど」  その男性はこともあろうか、そう言ったのだ。  曰く、廃工場に来い、と。  一体何様のつもりなのか。  どうせ先回りして何か仕掛けるつもりなのだろう。こっちだってそれぐらいわかる。いつまでもお嬢ちゃん、じゃないのだ。  荒々しく足音を立てながらエミリは廃工場に向かった。 「G016!!!」  これ見よがしにシャッターが開けられた廃工場。  無人のように見える中に向かって、エミリは叫んだ。 「いるんでしょうっ、出て来なさいっ!」  返事はない。  気配もない。  もとより、居るのは不死者と幽霊だ。気配なんて感じられなくて当たり前だ。  銃を構えたまま、中に入って行く。  薄暗い。  ゆっくりと、進む。  中の物はすべて撤去されたあとらしい。がらん、としている。  部屋の真ん中まで来た。 「神山隆二っ!」  吠えるように名前を呼ぶと、 「はいはーい」  かるーく返事が返って来た。  声がした方を見る。見上げる。上。  落下してくる影。  高い天井に掴まっていたのか、と思った時には遅かった。  真上から降りて来た隆二に組み敷かれた。 「ぐっ」 「駄目ー」  銃を持った右手も軽々と捻られる。掌から転がり落ちた銃は、隆二のズボン、尻ポケットに入れられた。 「暴発すればいいのに」  苦し紛れに呟くと、 「ここで暴発したところで嬢ちゃんの不利に変わりはない」  隆二が笑った、ような気がした。  顔が見えない。 「……頭を撃てばしばらくは動けないでしょう、と言ったのは私でしたね」  フルフェイスのヘルメット。 「どこで手に入れたんですか? 盗品?」 「失礼な。借りたんだよ。知らない人に。未承諾だけど」 「それを盗品というのです」  吐き捨てるように告げる。  何度か脱出を試みるが、常人離れした力には勝てない。  視界に、ふよふよと上空を浮かぶマオの姿。なんでそんなに眉根を寄せているのか。泣きそうな顔をしているのか。泣きたいのは、こちらだ。 「降参、してくんない?」  隆二の声。  泣きたいのはこちらだ。でも、泣かない。 「嫌です」  エミリはきっぱりとそう告げると、少しだけ口角をあげた。  そして、 「今です!」  叫んだ。  ほぼ同時に、隆二はエミリから飛び退く。不穏なものを感じて。  マオの手を掴むと、そのまま頭を抱え込んだ。  いくつかの銃声。  それから衝撃。  隆二は小さくうめく。  何か高い音が響く。とても近くから。  五月蝿いな、なんだこれ。そんなに騒ぐな。 『隆二っ、隆二ぃ!』 「……へーき」  腕の中、悲鳴のように名前を呼ぶマオの頭を撫でる。 『りゅーじっ』  マオの頭をすり抜けて、赤い雫が落ちる。  赤い水たまりが出来る。  なんだこれ、雨漏り? なんて、一瞬、脳が事態を理解するのを拒否する。  これまた無様に、喰らったものだ。 『隆二っ』 「だいじょうぶ」  喋ると同時にこみ上げて来た塊を飲み込む。 「ヘルメットは英断でしたね」  エミリの言葉に振り返る。  エミリの後ろ、入り口に立つ三つの人影。 「……増援部隊、ってやつ?」  かすれた声で尋ねると、エミリは頷いた。  乾いた笑いが漏れる。 「……やばいなぁ、平和ボケ?」  エミリはいつも一人で行動しているから忘れていた。彼らは組織なのだと。  エミリが近づいてくる。後ろの影は構えたまま。   被っていたヘルメットを脱ぐと、エミリに向かって投げつける。常人離れした力で投げられたソレは、エミリの足元に叩き付けられ、その形を歪ませた。借り物だけど、ごめん持ち主。  そのままなんとか後退し、距離をとる。増援部隊が撃った弾が足に当たったのはご愛嬌だ。今更足に一発当たったところで、何かが変わる訳じゃない。マオの悲鳴があがるだけだ。  エミリから奪った銃を構えてみせる。 『隆二ぃ』  クリアになった視界に、マオの泣き顔がうつる。 「……泣かなくて、いいから」  安心させるように微笑んでみせる。  でもマオの表情は変わらない。  被害状況を確認するのが憂鬱になる。  治って来た箇所もあるが、さっきまで居た場所にできた赤いみずたまり。あんまりきちんと見たくはない。  それにしても、ヘルメット、やっぱり被ったままにしとけばよかったかな。銃を構えたままの人影を見て思う。  マオを背中に隠すようにして、エミリと対峙する。 「銃、撃ったことありませんよね? 降参、しますか?」  エミリが尋ねてくる。  体の処理が追いつかない。それでも笑ってみせる。 「誰がそんなこと」 『待って!』  マオが叫んだ。隆二の言葉を遮るように。  隆二は視線を背後に動かす。  エミリは黙って動かない。  マオは隆二を庇うように両手を広げて彼の前に立つ。 『あたし、行くから。だからもうやめて』 「……マオ?」  血と一緒に、言葉がこぼれ落ちる。  何を、言っている? 『いいよ、もう』  マオは振り返ると小さく微笑んだ。口元は笑みをかたどっているが、目元はまったくその反対で、その顔はやけに頭にきた。  それは神山隆二の大嫌いな表情だった。  もう、どうでもいいと全てを諦めた者の顔。  昔、自分と仲間達が嫌というほどした顔。  なんで、そんな顔をしている?  なにがそんな顔をさせている?  どうしてそんな顔をしている?  そして、マオのその顔は嘗て愛した、今でも一番大切な女性の唯一認められなかった表情に似ていて、 「しょうがないよ、双子は忌み嫌われるものだから」  一瞬、だぶった。  そんな顔は見たくなかったから、必死に道化を演じてきた。  そんな顔は見たくなかったから、例え黒い茨の道でも突き進んできた。  そんな顔は見たくなかったから、犠牲の羊になることだって厭わなかった。  そんな顔は見たくなかったから。  今だって、見たくない。 『ありがとう。楽しかったから、もういいや』  マオは早口で告げる。 『そんなけがまでして、守ってくれなくてもいいよ。拾った猫がまた、元の飼い主のところへ戻っただけだと思って』  エミリの方を見る。 『あたし、行くから。帰るから。だから、もう隆二のこと傷つけないで』 「……もう、逃げませんね?」  ゆっくり吐き出したエミリの言葉に、マオは小さく一つ頷き自嘲気味に嗤った。 『何処に逃げたらいいのかわからないから』  それから再びやけに無表情で自分を見る隆二の方を振り返る。 『隆二、怒ってる? その、ごめんね。散々巻き込んで置いて。どうせなら、もっとはやく、あたしがこうしていればよかったよね。そうしたら、隆二がけがするなんてことなかったのに……。ごめんね』  隆二の頬に手を添えた。 『ありがとう。楽しかった』  そういって隆二の唇に自分の唇を重ねる。食事の意味を持たない、初めての行為。  隆二が、ほんの少し驚いたような顔をした。それがおかしくて少しだけ笑う。  そのまま、隆二の頭を抱えるようにして抱きついた。 『あのね、隆二。最初にね、会ったとき、本当はとても怖かったの。最初は、あたしのことを見える人がいるんだ! って素直に嬉しかった。でも、すぐに怖くなってしまった。気づかれるんじゃないか、あたしがまだ存在して少ししか経たない未熟者だと、本当は存在していてはいけない者だと』  隆二の耳元で、囁くようにして語る。隆二からの返事はない。  それで、構わなかった。 『そして、……これが一番怖かったんだけれども、また名前をもらえないんじゃないかと思って凄く怖かった。あの人達は、あたしのことを、それとかあれとか認識番号で呼んでいたの。だから、貴方が名前を付けてくれたとき凄く凄く安心して嬉しかった。あたしは「マオ」という存在にはじめてなれた。嬉しかった、ありがとう』  そう言って、少し黙る。あと他に、言いたいこと、なんだっけ? 『あたし、隆二の事、大好き。大好きだから、触れないのわかってても腕組んでみたかったし、手を繋いでみたかったし。大好きだから、もし、隆二がいいよって言ってくれたら、隆二を、食べたかった。男の人、美味しくないの、知ってたけど』  楔だった。  神山隆二という存在は、マオにとって世界とつながる楔だった。離れてしまえば、もう戻れない。そんなこと、わかっている。でも、 『その、後でちゃんとけがの治療してよね』  でも、だからこそ、彼を犠牲にするわけにはいかない。  あの水槽の中で本当は終わるはずだった。  たまたま逃げ出せたけれども、そのあともあのままだったら、きっとすぐに捕まっていただろう。  それを、少しの間だけれども、楽しい日々を過ごせた。隆二が知らないものを沢山教えてくれた。  それだけで、満足だ。 『それじゃあ、ね』  隆二の返事を待たず、隆二と視線を合わせないまま、手を離すとエミリの方へと移動する。  エミリの前に降りる。 『逃げて、ごめんなさい』 「そうですね。研究班はかんかんです。覚悟して置いた方がいいですよ」  そういって歩き出す。その後をマオはゆっくりと追う。 「待てよ」  それを隆二は引き留めた。  自分が思ったよりも大きな声だった。いつもよりかすれていたのは、大目にみて欲しい。  振り向いたエミリと振り向かないマオ。  銃を構えたままの三人組。 「ふざけるな」  ゆっくりと息を吐く。  足に力をいれて、立ち上がる。  三人組が撃とうとしたのを、エミリが片手で制した。  大丈夫。まだ立てる。 「見くびるな。拾った猫を犠牲にする程、落ちぶれていない。俺は欲ばりだから全部手に入れたがるし、事実、それだけの力もあると思うぞ、なぁ、嬢ちゃん?」  決して気は抜かず、それでも傍観者に徹していたエミリに話をふる。  エミリは軽く目を見開き、 「……そうですね、おそらくそうなのでしょう」  単純に、それだけ言った。  それを聞いてにやりと笑うと続ける。 「ほら、嬢ちゃんだってこういってるさ。疑心暗鬼ミチコよりも、俺の方が強いさ」  おどけてみせる。 「けがさせて悪いと本当に思っているなら、迷惑かけてしまったと思っているのならば、そうやって消えるんじゃだめだろ。本当にそう思っているのならば、俺にお詫びと恩返しをしろ」  自分でも段々何を言っているか、わからなくなってきた。  ただ一つだけいえるのは、今、この居候猫を見放すことができないということ。 『でもっ!』  マオが振り返る。また、泣きそうな顔をしているな。そう思って目を細める。  なんだか酷く不愉快だ。  何が? そういう顔をしているマオが? そういう顔をさせてしまっている自分が?  マオはそのまま、叫ぶように言葉を投げつける。 『でも、あたしは何も出来ないもの! 隆二がけがしているのに何も出来なかったし、恩返しもお詫びもきっと出来ない』 「そのうち肉体がもてるかもしれないぞ? そのうち霊体であるからこそ出来ることがあるかもしれないぞ? 半永久的に生きられるんだからな。そういうチャンスにいつか恵まれるさ。それがいつのことかわからないが、きっと研究所に行けば得られないことだと思う」  そういってやわらかく微笑んだ。  エミリが驚いたような顔をしたのを、視界の端に捕らえる。それはまるで自分が笑うのは気味が悪いみたいじゃないか、失礼な。 「マオが来てから、言わなかったけど、十分楽しかったんだ。それだけで本当は十分だったんだ。一人の、生活が長かったから」  こころなしか視界が揺らいできた。血の生成が追いつていない。  がんばれ、常人離れした俺の体。  あやまちを、繰り返すな。 「あの赤いソファーに座って、二人でだらだらとテレビでも見よう。あのソファー、やっぱり一人には大きすぎるんだ」  マオの瞳が揺らいだ。 「だから、なあ、マオ」  一呼吸置く。 「一緒に帰ろう」  そういって両手を広げてみせる。  マオが一度きつく目を閉じる。  何かを振り切るような動作だったが、それはほんの一秒足らずで、隆二の方へ向かって動き出した。  銃声。  マオが一瞬驚いたかのように目を見開き、それからすぐにゆっくりと目を閉じ、崩れるようにして倒れていく。  それを視界に捕らえた瞬間、走り出す。体が悲鳴をあげるのを無視する。  が、位置的に有利だったエミリが先に彼女を捕らえた。  舌打ちすると隆二は、再びエミリとの間合いを取り直す。 「それは?」  彼女が持っている先ほどとは、別の銃について尋ねる。 「なんでも研究班が開発した霊体にも効く銃だそうで、原理はわからないので省きますが。試作品ですし換えの弾もないので不安だったのですが、効いて良かったです。ついでに、今G016に触れるのも研究班が作ったこの手袋のおかげです」  そういってから隆二を見て、少し呆れたように笑う。 「安心してください。麻酔銃のようなもので眠っているだけです」  それでも隆二は彼女を睨むのをやめない。 「そんなこと言われて納得すると思っているのか?」 「いいえ。思っていません。ですが、その怖い顔はやめてください。さっき、貴方が微笑んでいるのを見てわたしはとても驚いたのですよ」 「失礼だな」  鼻で笑う。  エミリはそんな隆二を見るとため息をついた。  三人組が銃を構えたまま近づいてくる。 「どうして、そんなにG016に執着するのですか?」  エミリに抱えられたマオにちらりと視線をうつし、隆二は訥々と騙り始めた。 「ウサギは寂しいと死ぬらしい。小鳥も構ってやらないと死ぬらしい。そいつはもう、コトリとな」  自分で言った、然して面白くもない冗談に、意味もなく喉をふるわせる。  エミリが眉をひそめた。あるいは隆二を哀れむように、あるいは理解しがたいと言いたげに。 「それとこれにどういう関係があるのですか?」 「黙って聞け。だがな、マオは言った。人間はつまらないと死んでしまうんだ、ってな。そういうことは今の俺にはいまいちよく分からないが、ここしばらく一人で居た俺にはマオがいた期間がやけに新鮮に感じられてな」  一度言葉を切り、軽く目を閉じる。 「もっとも、ほとんど振り回されていたんだがな」  苦笑しながら付け加える。 「だが、不思議なことに、一人で今までどうやって過ごしてきたのか思い出せない。笑えるだろう? 一人で居た時間の方が長いはずなのに。だから、マオがいないと俺はつまらなくて死んでしまうかも知れない」  エミリの軽く眉間にしわを寄せた表情が、何を意味するのか隆二にはわからなかった。 「……嬢ちゃん、猫を飼ったことは?」 「いいえ。ありませんが……」 「そうか。俺の知り合いで猫が大好きなやつがいてな。どれぐらい好きかというと、毎日毎日飽きもせずに野良に餌をやりに行くぐらい好きなやつだった。それで、その関係で何度か世話をしたこともあるんだが、猫っていうのは人になつかないで家になつく、とも言われている。それぐらいそっけないんだ」  話の流れが見えない、とでも言いたげにエミリが首を傾げる。それに構わず話を続ける。 「いつも冷静で冷淡で、こちらが気を引こうと一生懸命になっても向こうは冷めた目で見てくるだけだ。だがな、時々、向こうの都合でしかないんだが甘えてくるんだ。不思議なものでな。ちっとも懐かないから嫌いだ、って思っていた猫も一度甘えられると手放せなくなるんだ。まぁ、この辺は人それぞれかも知れないし、俺も実際に世話をしてみるまでそんなの嘘だと思っていたんだがな。……そうだ、嘘だと思うなら、嬢ちゃんも一度猫を飼ってみればいい」  つまり、なにが言いたいかというと、 「俺にとってマオはそういうもんだ。わかるか?」  エミリは心持ち頷く。 「同族意識でも哀れみでもなんでもない。ただ居てくれるとありがたい、っていうだけなんだ」  自分で言ってから、それが自分の台詞だとは到底思えなかった。  かつて自分が愛した女性を看取る勇気がなかったそのときに。別れ際、彼女の前で自分は決めていたはずなのだ。  もう二度と何かに深く関わらないと。  マオが人ではないとはいえ、居てくれてありがたいという台詞が、まさか自分の口からでるなんて。  でも、マオとなら永遠だってありえる、死ぬわけないのだから。そんなことを、思っている。  全く一体、どういう心境の変化なのだろうか?  この変化を彼女は喜んでいるのだろうか? 恨んでいるのだろうか? 悲しんでいる?  どことなく後ろめたさを感じて、少し軽めの口調で隆二は付け加えた。 「そうだな、俺とあんたらの関係に少し似ているな。利用しあっている。ただ、決定的に違うと言えるのは、あんた達とはいつ寝首をかこうかタイミングを狙っているが、マオとはそんなことがないところだ。理解してもらえたか?」  エミリは首を横に振った。 「言いたいことは理解できます。ですが、それがどうして、けがを負ってまでG016に執着する理由になるのかが分かりません。ただの、実験体でしかないのに」 「考え方の違いだな。まず、根本的なところが俺とあんた達とでは違っているな。あんたらはあいつのことを実験体として扱っているが、俺にとっては最初から、そうだな、これからもただの居候猫でしかない。そもそも、それを言うならば俺だって実験体なんだしな」  そこまで言って、そういえば肝心なことを聞いていないことを思い出した。 「ところで、あんた達はどういう目的でマオを造ったんだ?」 「不老不死です」 「不老不死?」  眉をひそめる。 「なんだ、まだやってたのか、あんたら。いい加減懲りろよ」  死なない、老いない体の持ち主、かつての実験体は呆れて言う。 「……怒っていらっしゃいますか?」  エミリが少しだけ、怯えたような顔をした。 「いいや」  怒ってはいない。ばかにしているというべきであろう。  人間ってなんて進歩が無いんだろう。まだ、それを望んでいるなんて。  年もとらずに死ねないということがどういうことだか、実際に不老不死になってみないとわからないだろうか。だが、想像することぐらい出来るだろ? 自分の友人や恋人がどんどん年をとっていき死んでいくのをただ見ていることしか出来ない。  きっと、それを望んでいる連中はなってから後悔するだろう。  不死者はそう思ったが、口には出さなかった。  今更言ったって無意味だから。別にそれを自ら望んだ赤の他人が、後から後悔しても彼にとっては株価が昨日よりも上がったのと同じ程度のことだ。  代わりに再び質問をする。 「なんたって、未だにそれを?」 「今、それなりに日本は平和だと思いませんか? 医学も発展して、平均寿命というのものびています。それは、日本以外の多くの大国にも当てはまります」 「ああ」 「財産というのも、平均して暮らすのに困らない程度あります。聞いた話によると、贅沢を望まなければアルバイトでもそれなりに食べていけるそうですね?」  自分の方を見るのは、同意を求めているからだと気づくのに少し時間がかかった。  確かに隆二はたまにアルバイトするだけのフリーターだ。食べていく、という概念が薄いので失念していた。 「そうだな。とりあえず、家賃と光熱費は払えている」 「一部の多くの財産を持つ者は、お金を払って買えるものはほとんど手に入れてしまい、別の新しい何かを願っています」 「それが不老不死?」 「ええ」 「なるほどね。一生遊んで暮らせる以上の金があるやつなんかはもったいないと思うわけだ。一生遊んで暮らしても余ってしまうわけだし、実際一生遊んで暮らすのもなかなか難しいというか、辛いしな」 「みたいですね。よくわかりませんが」 「それで、不老不死と幽霊にどんな関係があるんだ? 不老不死になりたければ、俺みたいになればいいだけだろう? それとも、研究所にはもう、俺たちを造ったときの資料は残っていないのか?」 「資料は残ってはいるのですが、不完全なものです。それに、その『お金持ち達』は自分達の肉体が改造されることは拒んでいます。不老不死にはなりたいが、もしかしたら途中で死にたくなるかも知れない。そのときに死ねないというのは嫌だ」 「わがまま」  小さく呟いた。 「それに、貴方のような飛び抜けた身体能力が欲しいというわけでもありません。ですから、私たちは新しく何かを考える必要に迫られたのです」 「別にわざわざそんなわがままな連中の言うことを聞いてやらなくても、他にやることはあるだろう?」  エミリは隆二を見て小さく嗤った。 「もし私たちが拒絶すれば国際問題に発展しかねませんよ? 一応、研究所は日本にありますが、今は世界各国との共同研究所扱いになっていますから。それに、莫大な研究資金をあなたの言う『わがままな連中』が投資してくださっているので、ご機嫌を損ねるわけにはいきません。他にも色々と、『社会の役に立ちそうな』研究を抱えていますから」 「……面倒だな」 「幽霊を造っているのは、不老不死の研究の一環です。というか、最初は幽霊を作るつもりじゃなかったんですよ」  一度こちらに視線を向け、問いかける。 「愚問かもしれませんが、ホムンクルスってご存知ですか?」 「ん、ああ。あれだろ? 錬金術にでてくる人造人間」  人間の精液を、馬糞と共にフラスコに密閉し、四十日間経過すると、この精液は生命を生じる。人間に姿は似ているものの、まだ透明で真の物質ではない。さらに四十週間、人の生き血で養い、一定の温度を保つと、人間の子供と同じように成長する。身体は、女性から生まれた子供よりもずっと小さい。  なんていう作り方を、記憶の中からひっぱりだしてきて考える。 「それで、ホムンクルスがどうしたって?」 「その、ホムンクルスは自然とあらゆる知識を身につけているが、フラスコの外で生きることはできないっていうのはご存知ですか?」 「そういえば、そんなのだったかも」 「そんなのだったんです。そこで研究班の人間は考えたんです」 「『あらゆる知識を身に付けているならば不老不死についても知っているのではないか?』って?」 「……はい」  相変わらず、わかりやすい思考をしている人々だ。隆二は少しばかり苦笑する。 「ですが、やはり実験は失敗した。研究班は肩を落として、もう一度挑戦するかどうか話し合おうとしていた、そのときに気づいたんです。フラスコの近くに幽霊がいることに」 「……変な風に作用したってことか?」 「おそらく。もし幽霊が死んだ人間の魂だという説を信じるならば、死んだホムンクルスの霊だったんだと思います。そして、一応それで落ち着いています。ただ、これでも我々は一応科学者なので、科学的に証明できないことは信じていないのですが」 「……ふーん」  まぁ、確かに、科学者か否かと聞かれたら科学者だろう。人の脳や内臓に手を加えて不死者をつくるぐらいなんだから。  それに、病気の特効薬の発明とか新しい機械の製造とかに、実はこの研究所は関わっている。非人道的なことも行っているので、決して表沙汰にはならないが。 「なんか、失礼なこと考えていません?」  顔に出ていたらしい。不機嫌そうな顔をされた。 「いやいやまさかそんなことないよ」  答える自分も白々しい。エミリは信じていなそうな顔をしてこちらを見た。 「話の続きですが、幽霊というのは不老不死です。肉体がないのだから当たり前なのですが。それでホムンクルスの研究を進める一方で、幽霊についての研究もはじめました。それがG016達です。人がものを認識するのは、ものが光を反射するからなのは当然ご存知ですよね?」  一つ頷く。 「ならば、その光の反射をあやつることが出来たならば、存在しないものをさも存在しているようにみせかけることも、逆に存在しているものを見えなくすることも可能なわけです。理論上は。G016達はその光をあやつって作ったとされています」 「そういうものかね?」  それで、あんな幽霊が出来るものだろうか。 「が……、正直私は嘘だと思っています」  重要なことをやけにさらりとあっけらかんと言われて、一瞬聞き逃しそうになった。 「え?」 「実は派遣執行官であるわたしには詳しいことは説明されていませんし、詳しい理論やなにやらはまったくといっていいほどわかりません。説明されても、正直、理解できるかどうかさえも怪しいですし……。研究班もそれを理解しているのでしょう、余計なことまでこちらに語ってきません。ですから、平気で研究班は嘘をつくんです。秘密保持のために」  そういってエミリは肩をすくめた。 「……あんた、今随分なことを言ったな」 「そうですか? まぁ、組織なんてそんなものです」  まさか十六歳の小娘に組織について語られるとは思っても見なかった。 「まあ、そんなこんなで出来たのがマオ、と」 「ええ。ただ、G016の製造工程には何かしらミスがあったようなのです。失敗作というか」 「ミス?」 「本来ならば、あんなに確立した自我は持たないはずなのです。霊というのは精神体ですから、あまり不安定なのはよくありません。多少の感情は埋め込みますがG016の場合は違います。ころころとよく感情が変わり、不安定で……」  まあ、確かによくわからない感情の発露をする幽霊だ。 「ましてや逃げ出すはずなど、自意識をもつはずなど、ありえないはずなんです」  エミリがそうやって言い切る。  この少女は気づいているのだろうか?  自分が如何に自然の道理に反したことを行っているのかを。感情を持っていることをミスと言い切ってしまうことの残虐性を。  自分達が行っていることが、どういうことになるのかを。本当に理解しているのだろうか? 「若気の至り」 「はい?」  思わず呟いた言葉に、エミリは眉をひそめて隆二を見てきた。  そう言う表情のある顔をしていれば年相応に見えるのになといつも思う。もったいない。せっかく、祖母譲りの綺麗な顔立ちをしているのに。 「……なるほど、マオが作られた経緯についてはよくわかった」 「そうですか」  エミリが頷く。 「ただ、納得はできない」  エミリが少しだけ眉をひそめた。 「まぁ、それがつまり何を意味するかというと……」  少し体に力を入れる。 「今更だが、俺たちの間に話し合いの余地はないってことだ。話し合いをしても構わないが、一晩かかっても終わらないだろう。一度植え付けられた価値観というのはなかなか払拭できないしな。まぁ、俺があんたらと話し合いで何かを解決したことはないし、ここ最近は敵対してすらいなかったからな」 「……そうですね」  エミリは一瞬の躊躇の後、ため息をついた。味方から新たに受け取った銃を隆二に向ける。  黒い三人も同じようにした。隆二を囲むように並んでいる。 「でも、最後にもう一つ聞いてもいいですか?」 「人にものを尋ねるときに銃口を向けろと、研究所では教育しているのか?」  そいつは愉快な教育方針だ、そう言ってやると、エミリは不愉快そうに眉をひそめたものの大人しく銃を降ろす。 「それで?」 「もし、仮に、貴方のところに行ってG016が存在していけると思っているのですか? 聞いたとは思いますが、まだ試作段階なので定期的に人の精気を摂取する必要性があります。貴方はそれをちゃんと、得ることが出来ますか? 貴方に幽霊のために自分の精気を分けてくれる人間の知り合いがいるとは、とてもじゃないが思えません。ならば、無理矢理奪うことになるでしょう。そうなれば、いずれそれは、他者にばれるかもしれません。そうしたらどうするおつもりなのですか?」  確かにその危険性はある。今だって問題視しているし、未だに答えは出ていない。それについては、いや、その他の問題についても考えればきりがない。  それでも、そのリスクを犯さざるを得ないのは……、 「だが、戻ればマオは消去されるだけだろう?」  そんな事態は避けたいから。  エミリは少し、眉を上げた。 「言ってたよな。マオは失敗作だ、って」  エミリが頷くのを確認するよりも早く、隆二は続ける。 「あいつらが失敗作を残しておくなんて考えられない。俺たちを造っていた頃はばんばん失敗作を棄てていったんだしな。消されると分かっているところに連れて行かせられるか」  エミリは何も言わない。  沈黙は何よりも雄弁な肯定。  思い出すのは、あの失敗作と言われて消されていった自分と同年代の子どもの顔。そして、いつ自分の番になるのかといった恐れ。  自分は成功作として扱われていると気づいたときにも、それらは忘れることが出来なかった。  あのころは、ずっと悪夢にうなされていた。後ろめたさと罪悪感で。  そんな気持ちに知り合いを、それも居候猫をさせることなど、隆二には出来なかった。 「それに俺たちがとる精気だって食物連鎖だと考えればいいだろう? 人間っていうのは不思議だよな。豚やら鶏やらいつも平気で殺して食べているくせに、普段食べない犬や兎を食べることを異端とする。どちらも生き物の命を奪っているという事実は変わらないのに。それならば、命を奪ったりしない程度の精気をとることはまだかわいい方だろう?」  隆二はじっとエミリを見る。 「それは詭弁にしか過ぎません」  少し沈黙が続き、エミリは絞り出すようにして言った。 「そうだな。詭弁かも知れない。だけど、本当のことだろう?」  笑う。皮肉っぽく。 「あいにくと俺は、神様を信じちゃいねぇんだ。あんたら造物主を崇めるつもりは毛頭ない」  そして、小さく息を吐いた。喉に渇きを覚える。 「まったく、今日で一年分は動いたし、しゃべったぞ。これで残り一年は動かずにしゃべらずにいても誰からも怒られないな」  ついでに血も十年分は確実に流したな、と思う。  軽口をたたく。口元には笑みが浮かんでいるが、しかし目元は笑っていない。見据えるようにエミリを見ている。  それをみてエミリは一つため息をついた。 「やはり、素直に譲り渡してくれる気はないのですね?」 「根本的にマオは物じゃないしな。あいつが心の底から戻る気があるならば話は別だが。……マオにそういう感情を抱かせる自信はあるか?」 「わかりました」  エミリは銃を構える。足下にマオを横たえた状態で。 「貴方のような協力者が居なくなるなんて、残念です」  銃声。  今度はきちんと避け切れた。  引き金がひかれる直前に跳び上がる。  そのまま黒い三人の一人の背後に。首筋に手刀を叩き付けて、一人昏倒。  隣の一人が慌ててこちらに銃口を向けてくる。昏倒したばかりの味方を投げつけてやる。とっさに力ない体を受け取り、バランスを崩したところに横から薙ぐような蹴りを。これで二人昏倒。  最後の一人が駆けてくる。激情に駆られたように。 「ばっ! 無茶ですっ!」  エミリが叫ぶ。  一発左手に弾をうけるが、それは一旦忘れることにする。駆け寄って来た相手の拳を、その左手で受ける。結構痛かった。  そのまま相手の手を捻り、ついでに腹部に一発蹴りを。 「っと、お仲間がどうなってもいいわけ?」  エミリが銃口を向けてくるから、そいつの首を左手で拘束し、そのこめかみに奪った銃を当てる。  拘束された本人がうめきながらも小さく舌打ちした。 「随分、動けるんですね。そのけがで」  エミリの言葉に思わず笑う。 「動けるようになるための時間稼ぎ手伝ってくれてありがとう」  どうしてマオを作ったのか。それに興味がなかったといえば嘘になる。だが、わざわざ今このタイミングで訊いたのは、血の生成を間に合わせための、傷口を少しでも治すための、時間稼ぎに他ならなかった。  ひっかけられたことを知り、エミリがくしゃりと表情を歪める。 「まあ、怒るなって」  こっちがけがを治したことだって時間稼ぎにしかなってないんだから。まだ少し、くらくらする。  エミリが一歩二歩、近づいてくる。 「撃つよ?」  右手の銃を軽く動かしてみせる。 「撃てませんよ」  エミリがバカにしたように笑う。 「撃てるって」  そりゃあ、良心がとがめないわけじゃないけど。 「メンタリティの問題じゃありません」 「は?」 「セーフティがかかったままだ、バカ」  答えたのは拘束されている本人だった。  言われて隆二は手の中の銃を見つめ、 「……そうなんだ?」  一体どこがどうなっているのかわからないまま、それを遠くの方へ力一杯投げた。 「……あ、はったりだった?」  投げてからエミリに尋ねる。マオがこの間見ていたドラマにそんなシーンがあった。セーフティがかかってるぜ? とかはったりかました後にグーパンチしていたが。 「教えません」  エミリはにこりともせずに答える。 「丸腰ですし、観念してください」 「うーん、あのさ」  首筋に回した腕を見る。 「このまま俺が腕に力こめたら、あっさり首の骨って折れると思うんだ。だからごめん、彼が人質なのに変わりはない」  エミリの眉が吊り上がる。 「俺の、ことは、かまいませんっ」  人質がかすれた声をあげる。  エミリの眉がますます吊り上がる。 「俺に殴りかかってくるとことか、そういうこと言っちゃうとことか、この人新入り?」 「……わかりますか」 「そんな気がした。嬢ちゃんよりは年上っぽいのになー」 「バカに、するなっ!」 「バカをバカにして何が悪いのさ」  呆れて笑う。 「命あっての物種だ。そういうこと言うなって。がんばれ世に憚れそれじゃあまた」  流れるように告げると、きゅっと首をしめた。頸動脈を圧迫。  かくっと、気を失う人質。彼自身が着ていた上着で両手を縛っておいた。なんとなく、おまけ的な気持ちで。それから持っていたナイフも頂いた。 「……役に立ちませんね」  立ち上がった隆二に、エミリが呆れたように告げる。 「こんなのしか来ないなんて、嬢ちゃん人望ないの?」 「慢性的に人員不足なんです。あと、エミリです」 「そっか、がんばれ」  気を取り直したようにエミリが銃を構え直す。 「降参しましょう?」 「この状況でも降参を持ちかけられる嬢ちゃんが俺は結構好きだよ」 「エミリです」 「でも、俺をどうにかしたいならエクスカリバーぐらい持って来ないと」  実験体の抹消に使われていた武器の愛称をおどけて言ってみせると、 「許可が下りなかったんです」  真顔でそう言われた。 「って、許可申請したのかよ。マジでやる気だったのかよ……。もうやだ、若者こえぇ。ゲーム脳ってやつだな」  思わず嘆く。エミリは大げさに嘆く隆二を観察するような目で見ていたが、小さく息を吐くと銃を構えた。狙いを定める。  その瞬間を見逃さず、隆二はエミリの懐へと飛び込む。  エミリが慌てて、狙いを定めなおす。  だが、遅い。  隆二の卓越された身体能力は、目で追うのが精一杯の速さでエミリの懐へとその体をもぐりこませた。  それでも、隆二がマオを抱えてエミリの喉元に先ほどのナイフを突きつけるのと、エミリが隆二の額に銃口を押しつけるのは同時だった。 「おとなしくG016を渡してくれませんか?」 「お嬢ちゃんこそ、今日はもう帰ってくれないか。それにしても不意打ちとは酷いなぁ」 「このタイミングを狙っていたくせによく言いますね」  喉元のナイフを忌々しそうに見ながら、エミリは言葉を吐き出す。 「別に演技でもなんでもないぞ。俺は至って真剣かつ深刻に嘆いていたからな」  ナイフをさらに近づける。エミリは反射的に、少しだけ体を反らした。特にそれを気にとめたりせずに、隆二は続ける。 「さて、別に引き金を引いて俺の頭を打ち抜いてもらってもいいんだが。そうした場合お嬢ちゃんはマオを連れて帰れない。お嬢ちゃんが引き金を引く前に、俺は刺す。よくて相打ちだ」 「だから、降参しろ、と?」 「なんか不満?」 「父が言っていました。あなたは本気になれば研究所をつぶすほどの力を持っていると。でも先ほどから見ている限り、手を抜いていらっしゃいますよね? その結果のけがではありませんか?」 「ずいぶんと俺はおっちゃんに買いかぶられていたみたいだな。そんなに凄くはない」 「でもあなたなら、このままわたしたちを殲滅するぐらい造作もないのでは? 大体、貴方自身が先ほどおっしゃっていたではありませんか。『全部手に入れる力がある』と……」 「そりゃぁ、まあ。嬢ちゃんを殺すなんて赤子の手をひねるようなもんだけど、」  そこで一度言葉を切って、言葉を探す。  色々と物騒な言葉が思いついたが、あえてそれは却下し、なるべく穏便に聞こえそうな言葉を選ぶ。 「……ほら俺あっちこっち痛いし。それに、お嬢ちゃんをここで殺しちゃったら次はもっと手強い祓い屋が、」 「派遣執行官です」 「それがくることになるんだろ? それだと面倒だからな。研究所と敵対すると身分証明書とか偽造してもらえなくなるし。そうなると割と困るんでな。部屋借りたり、アルバイトしたり、そういうのできなくなるし」 「それはわたしが弱いと?」  うめくようなエミリの言葉に、眉を片方あげる。  まさか、そう返されるとは思わなかった。 「普通の女の子としては驚くべき強さだと思うから気に悩む必要はきっとないぞ。いや、気にした方がいいのか? そのままじゃ、彼氏も出来ないからな」  腕に抱えているマオに思い出したように視線をやる。堅く目を閉じたまま、動かない。  少しばかり不安になる。 「なぁ、こいつ、いつになったら起きるんだ?」  エミリは一瞬、何のことを言われたかわからずにまじまじと隆二の顔を見てしまった。見てしまってから彼の視線の先に気づく。 「G016ですか?」 「あ~、言おうと思ってたんだが、それじゃぁ味気ないからマオ、な。せっかく俺が無い知恵しぼって考えたんだし。ほら、嬢ちゃんも祓い屋っていうと怒るだろ? それと同じだ」  エミリは眉をひそめて何かを思案した後、不本意そうに言い直した。 「マオ……さん、でしたら、明日のお昼ぐらいには」 「そうか」 「でも、聞いても無駄ですよ。わたしが連れて帰りますから」  隆二は肩をすくめた。 「さっきの新人君じゃないが、研究所の人間は命とかいうやつを粗末に扱いすぎる。俺がとやかく言えた立場じゃないんだがな。人っていうのは簡単に物に成り下がる。まぁ、生きることを放棄して、ただ『存在する』ことにした人間もいるがな。生きる屍っていうか」  言ってから、ある意味それは自分にもあてはまるのではないかと思った。生きることをせずに、ただ存在することにした不死者。  生きているから死ぬのであって、死なないものは生きていない。そんな理屈を並べ立てたって、結局他人には生きる屍にしか見えないのかも知れない。  そこまで考えてから首を左右に振った。いずれにしても、今はまだ問題視する場面ではない。そういうことは、無事に助かってから考えるべきだ。 「だから、簡単に殲滅できるとか言うなよ」  エミリは酷く不可解そうな顔をした。  それが自分の言葉によるものではなく、表情による物だと気づくのに少し時間がかかった。意識してみれば、自分は酷く弱々しい笑みを浮かべていた。  それにしても、笑みを浮かべるたびにそんな顔をされてしまっては、まるでいつも自分が仏頂面のようではないか。それは事実だが。 「もっとも、これはある人の受け売りなんだがな」  そういって肩をすくめる。  誰のか、とはエミリは聞いてこなかった。聞いても無駄だと思ったのかも知れない。なんせ自分の知り合いはほとんどもう死んでいるから。  そう結論付けて次の台詞に行こうとした隆二は、エミリが隆二をじっと見つめていることに気づいた。先ほどまでの鋭い視線とは違う、どこか哀れむような目で隆二を見ていた。  それからエミリは何度か言葉を選ぶように口を動かし、小さな声で言った。 「……大切な人だったのですね」 「は?」  何故エミリがそういったことを聞いてくるのか、わからずに隆二は間の抜けた顔をする。確かに、それを言った彼女は、とても大切な人だった。いや、大切な人だが。  エミリはわずかにうつむいていた顔を上げ、隆二を見つめる。 「とても懐かしそうで優しそうな顔をなさっているからです。自分の宝物を見るような……」  隆二はエミリを数秒見て、額に手を当てて嘆息した。 「どうして嬢ちゃんは、面と向かってそういうことをいうかな。恥ずかしいじゃないか。そんな冷静に人の顔を分析しないでくれ」  そう言って、手を額から離す。  意識的に先ほどとは違う、真剣な顔をつくる。  エミリが身構えたのが分かった。 「だから、」  そういって、隆二は笑みを浮かべた。今度は、酷く楽しそうな笑みを。 「だから、俺は殺されるわけにも殺すわけにもいかないんだ。大切な人との約束だからな」  そういって、持っていたナイフを半回転させ、刃の部分を握り直し、柄の部分でエミリの喉をついた。 「っ」  瞬間、エミリが焦ったような顔をして、でもすぐに瞳を閉じた。  気を失い倒れそうになったエミリを、マオを抱えているのとは逆の手で受け止める。 「……やりすぎてない、よな? 大丈夫だよな?」  動かないエミリの顔の前に掌をかざし、息をしているのを確かめる。  ナイフで切った掌をぼんやり眺める。満身創痍すぎて、これぐらいなんでもない。  マオをちゃんと抱え直し、その頭をなんとなく撫でようとして、血まみれの掌に気づきやめる。代わりにマオを抱えたまま、地面に倒れ込んだ。  このまま眠りたい。目が覚めたら全部どうにかなってないかな。  投げやりなことを考えていると、 「……もしかして、全部終わりましたか?」  穏やかな声がかけられる。  視線を向けると、入り口に和服姿の男性が立っていた。 「おー、おっちゃん。呼び出して悪い」  マオを抱えているのと反対の手をあげると、男性はつかつかと寄って来た。 「いえ、遅れてすみません。非番で自宅にいたもので」 「ああ、家、遠いんだっけ」  中年のその男性は温和そうな顔を、痛ましそうにひそめた。 「だいぶ、お怪我をされているようで」 「まあ、ぼちぼち?」 「すみません」 「気にしなくていいって」  ゆっくりと上体を起こす。 「悪い。色々あるんだけど、とりあえず今は家に戻りたい」 「はい。お送りします。その格好じゃ、外歩けませんしね」  言われて改めて自分の全身を見下ろす。真っ赤だった。 「職質物件だなこりゃ」  苦笑いする。それから倒れている黒服三名と赤服一名を指差す。 「これらの後片付けも」 「はい、引き受けます」 「本当、申し訳ない」 「いえ、こちらの不手際ですので」  右手を出されたので素直に掴まる。そうして立ち上がると、車のキーを渡された。 「すぐそこに止めてあります。とりあえず乗っていてください。こっちをどうにかしたらすぐにお送りします」 「頼む」  素直にそれを受けると、マオを抱えて倉庫から外にでる。  今は一体何時ぐらいなんだろう。もうよくわからない。  出てすぐに止めてあった黒塗りの車に乗り込む。  倒れ込むようにして後部座席に座ると、目を閉じた。  あとのことは、あとで考えよう。  今はとりあえず、マオと一緒に帰れることを喜ぼう。  眠ったままのマオの顔を見て、少しだけ笑った。
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