1.人魚姫の夢物語

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やっぱりさっきのは、極度に緊張していたせいだ。 一安心して教室へと戻る。 ……でも一限目は数学がある。 当てられることにちょっと憂鬱になりながらも、 数井の力を借りてだけどちゃんと答えられる俺を、飛鳥は少しでも見直してくれるだろうか。 元々の評価なんて知らないけれど、そんな期待もしてみる。 「全員いるなー」 休みの生徒が居ない事だけ確認して、投げやりな出席がとられる。 担任が数学教師なので、HRの後そのまま授業へと入る。 「じゃあ次、斉木ここな」 予想通りの順番に当てられた。 はい。 ノートを持って黒板へと向かい、チョークを走らせながらハッとする。 俺、今、声出てた? 「斉木?」 書き終えた所で、じゃあそこの説明を、と声を出すことを求められる。 いやいや、大丈夫。気のせい。と答えようとするも、またしても声は出ない。 どうしたんだ一体。 様子の変な俺に、教室が軽くざわついていくつかの視線が刺さる。 「斉木ちょっと喉の調子悪いっぽいですー」 自分の代わりに井川の声が聞こえた。 そうか、じゃあもう戻っていいよと先生に言われ、席に戻った。 俺の席は窓際から3列目で少し後ろの方。 窓から2列目の真ん中らへんに座る飛鳥とは、移動したりプリントを回す時には意識しなくても目に入る。 今もそう。 席に着こうとする俺に、心配そうな視線を向けてきた。 『大丈夫?』と口の動きだけで尋ねてくるので、 顔が赤くなってはいないかと不安になりつつも頷いた。 多分俺は、溺れてしまったんだ。 人魚になんかなれっこないのに、うまく泳げないのに、欲を出して。 今すでに十分なものを持っているのに、彼に近づく足が欲しいと望むから。 もがいているから酸素が足りない。 だから十人並みの声すら失ってしまう。 彼が近くにいるというだけで、俺は何も言えなくなってしまった。
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