第1章

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僕らは互いに何かを追い求めていた。家にいる時はだいたい2人で夢を語り合ったし、マサユキは僕に英語を教えてくれた。彼はたまに僕の路上ライブに来て写真を撮ったりしていたが、それも慣れっこになっていた。 そんな日が当たり前になった頃だった 僕にずっと待っていた瞬間が訪れたのは 『アワーミュージックの元木っていうものだけど』 差し出された名刺に驚いたのは僕よりもマサユキだった。彼は飛んだり跳ねたりしてそれはもう手に負えなかった。いやいや、僕が声かけられたんだけど。なんだか喜ぶタイミングを見失ったじゃないか。 『あの、これってもしかして…』 『スカウトだよ。君の歌を聴かせてほしい』 元木さんは一見普通のサラリーマンだった。 アワーミュージックは大手音楽事務所で、たくさんの人気歌手を輩出している。 『やったな!タイチ!やったな!』 マサユキは自分の事みたいに喜んでくれた。スカウトされたその日はタイチの家でキムチ鍋をした。じんわり涙が浮かんできたのをキムチの辛さのせいにしてみたり、にやけ顏が止まらないのを酒のせいにしてみたりしたけど、マサユキは何も言わずに僕の肩を抱いて歌ってくれた。 相変わらず持ち歌はTo be with youだけだったけど、僕らは大家さんに注意されるまで大声で歌った。古いアパートに僕の歌声が染み込んでいくようで、とても気持ちがよかった。 でもこの日を境に僕らお隣さんの『日常』になっていた生活は少しずつ引き離していく事になる。 音楽事務所が決まるとデビューまでの話がトントン拍子に進み、僕は今まで通りに路上ライブをする事ができなくなった。パチンコ屋のバイトも辞めた。家で弾いていたギターは防音のスタジオで弾くようになった。それは今まで日常をいとも簡単に塗り替えていく。 マサユキと僕は次第と会う時間が減った。 それでもたまにキムチ鍋の匂いがしたから生きてはいるんだな、なんてぼんやり考えていた。
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