第1章

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〔1〕  美術室の西側の窓は開いたままだった。  透明で涼やかな秋風が運んでくる波の音は心地良いし、時折断崖を伝ってこの高台まで吹き上げてくる湿った潮のにおいも嫌いではない。しかしそろそろ風は冷たさを増し波の音も荒くなってきたようだ。  気が付けば窓から射し込む西日が、イーゼルの長い影を白いモルタルの壁に黒々と映しだしている。 (もうそろそろ限界かな。)  秋本遼はデッサン用の木炭を走らす手を止めた。  沈みかけの太陽は、水平線上に重なり合った灰色の雲の隙間を、まるで血のように鮮やかな緋色で縁取っている。  それはまるで、我が物顔で天空を走る太陽が、地の底に引きずり込まれる瞬間にあげる断末魔だ。恐ろしいほど美しい、この眺めが遼は好きだった。  椅子の背もたれに掛けてある制服上着の内ポケットから取り出した携帯は、四時三五分を表示していた。  文化祭のテーマに選んだ教室の西からの光で陰影をつけたデッサン画は時間的に制限がある。今更悔やんでも仕方がないが、これほど日の傾きが早くなっては来月末の文化祭に間に合うかどうか。後は記憶を頼りに進めて、仕上げで補正するしかなさそうだ。  デッサン画を丸めてケースに納め、イーゼルを壁際の定位置に置く。デッサンモデル「アキレス」は他の石膏像の並ぶ棚に戻さなくてはならない。
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