第1章

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「このたび、お隣に引っ越してきた清水と申します。どうぞ、よろしくお願いします。あ、これ、つまらないものですが。」 人の良さそうな笑みを浮かべて、その中年夫婦の奥さんが、包装紙に包まれた、おそらく洗剤であろう物を手渡してきた。 その傍らには、恥ずかしそうに両親の影に隠れるように、小学低学年、おそらく1年生くらいの女の子が佇んでいる。 「どうも、ご丁寧に。田中と申します。よろしくお願いします。」 私は、自分の部屋の表札に掲げている偽名を名乗る。  本来であれば、私は、決して玄関を開けることはないのだ。 小さなドアスコープから覗いて、セールスや宗教でないことは、明らかだったし、ましてや私が一番恐れている人間でもなかった。 いかにも、引越しのご挨拶というのが見て取れたので、厳重にチェーンまでしているドアを開けたのだ。 それに、何故か、開けたくなった。なんとなく、開けたくなったのだ。 私も、こんな生活をしていて人恋しくなってしまったのかもしれない。  私が、ひっそりとこの1DKの小さな古いアパートに暮らしているのには、理由がある。 夫の暴力から、命からがら逃げてきたのだ。殺されると思った。 夫の暴力は、結婚してから始まった。 付き合っている頃から、多少神経質なところがあるのかなとは思っていたのだが、些細なことでも、気に食わなければ女でも容赦なく暴力を振るうのだ。 何度か骨折した。今も、少し寒くなると、古傷が痛む。私は、実家にも告げず、このアパートに越して来た。 もちろん、市役所にも、住民票の閲覧制限をかけてもらっている。 なんとか平穏無事に1年を過ごすことができたのだ。 実家に電話をしたら、やはりあいつは実家にまで押しかけてきたようだ。 両親には何かあったらすぐに警察を呼ぶように伝えたが、一度押しかけて、本当に居場所を知らないことを伝えると、それ以来押しかけてはいないようだ。  だが、あの男は執念深い男だ。油断は禁物。表札には偽名をかかげ、夜の作業の仕事に就いた。 昼間明るいうちにうろついて、あの男に見つけられないように。 買い物は、職場近くの24時間スーパーで真夜中に済ませる。昼間は、カーテンを閉め切って、息を潜めて生活していたのだ。
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