渡り人の過去

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渡り人の過去

一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。まだ目の奥に、弾けた虹色の強い光がちらついていた。 「母さん、本当にお世話になりました。僕は明日、東京に参ります」 男の人の声が耳に届いた。 私に向かって正座している物静かな青年が頭を下げた。短髪がすっきりとした二十歳くらいの書生姿で、どこかで見た覚えのある整った顔をしていた。 「そう……」 自分に言われたのかと思っていたら、私のすぐ隣に一人の小紋の着物を上品に着こなした30代くらいの女性がいて、頷いた。 私の姿は彼ら二人には見えない様子だった。 「淋しくなるわ……」 そう言った女性は、物腰も柔らかにゆっくり立ち上がると、正座している青年に近づいて手にしていた扇子の柄で顎をあげさせた。 親子にしては年齢が近すぎる。女性の無言の視線と、その唇の紅が蠱惑的に婀娜めいて、見てはいけないと頭の隅で何かが警告した。 「本当に淋しい……」 青年は無言のまま淋しいと訴える目の前の女性を見ている。 その瞳は昏く、一瞬死を連想してぞっとした。 二人の張りつめた微妙な糸に、単純な親子のものだけじゃないおぞましさを感じた。身動きできず固まっていた私が息を飲んだ時、ふいにそばの襖がすぱんと開いた。 「おふくろ!」 「あら、惣治さん」 もう一人、惣治と呼ばれた10代半ばらしき少年が勢いよく畳を踏みつけるように入ってきた。派手な着流し姿が粋だ。 すぐに書生姿の青年から離れた女性は、入ってきた彼に嬉しそうに笑顔を向けた。それは年相応の母親の顔に見えた。 「あれ、にいさん。さっさと都会に行っちまったんじゃないのか」 惣治という少年は、けろっと青年に言葉を吐き捨てる。 あまり仲は良くなさそうだ。青年は面を伏せたまま、肩身が狭そうだった。 「おふくろ、つけが溜まってるんだ。百円ほどちょっと」 「百円!? ちょっとどこじゃないじゃないの、何に使っちまったの!」 「そりゃ言えねぇよなあ、にいさん」 惣治さんは年齢の割にませた含み笑いをして、青年の方にちらりと視線を寄越した。でも相手は視線を伏せたままだ。 「ち、つまんねぇやつ」 小さく舌打ちして、少年は母親を急かして部屋を出ていった。仕方ないとゆるやかに頭を振った母親もまた、惣治さんを追った。
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