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鎮まるはずだった鼓動が早いリズムを刻んで、逃げなくちゃと思った。
直感だった。
でも凍りついたように、足が動かない。濡れている体が、初めて冷たくて寒いと感じた。
その人は、私から10メートルくらい離れたところで立ち止まった。
その瞬間、呪縛がとけたみたいに体から力が抜けて、弾かれたように立ち上がった。
道路を渡って、コンビニに逃げ込んでしまえばいい。そう思って走り出そうとした時だった。
「逃げないで、お願い」
離れているのに、私のすぐそばで言葉を発したかのように、背中に声が届いた。
低い男の人の声だった。
その声の切実さと柔らかさに足が止まった。
「怖がらないでください、僕を」
振り返ると、彼は少し距離を保ったまま、私の正面に対峙している。
やっぱり濡れていない。
なぜ、この雨の中を。
緊張のあまり心臓が大きな音を立てて動いているみたいだった。
「僕が見える人は、初めてなんだ。少しでいいから、話をさせてください」
雨の音を縫って、彼の言葉が私に届く。
まるで雨粒がその丸い形を真空管の代わりにして響いてくる。
私はぶるりと震えると、スマホを握りしめた。
彼は断られることも覚悟しているかのように私の返事を待っている。
雨に濡れない不思議な人。
かすかに興味をくすぐられた。
もし危険ならすぐにコンビニに逃げこめばいい。もう一度自分に言い聞かせて頷くと、彼は安心したように笑った。
「そちらに、行ってもいい、ですか?」
頷いた。
彼はゆっくり足を踏み出して、私の方に歩いてきた。
肩よりも長い黒髪が揺れて、雨の糸の間を縫うような優雅な身のこなしが美しいと見惚れそうになった。
「逃げないでくれて、ありがとう」
静かな吐息とともに、彼は心底嬉しそうに私に頭を下げた。
目の前で見る彼は、本当にどこも雨に濡れていなかった。
クセのついた長い黒髪も、長い睫毛も、筋の通った鼻梁も、滑らかそうな頬も、少しふっくらした均質な唇も、着ているTシャツも大きめのイージーパンツも、半袖の二の腕に巻かれたヘンプ編みも、褐色の肌を晒した素足も。
そしてその目の奥に吸い寄せられて、どきりとした。
まるで今のこの世界を支配する色みたいな灰色の虹彩があった。瞳孔もかすかに黒よりも薄く、一瞬ぽっかりと灰色の空洞が空いているのかと思ってしまった。
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