第1章

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海上保安官物語 小笠原 隆     プロローグ 1991年9月、舞鶴の空は真っ青に晴れ 渡っていた。 その、どこまでも突き抜ける青さの中に 純白の197の帽子が一斉に乱れ飛んだ。 今日はここ、京都府舞鶴の海上保安学校で の10月期生の卒業式だ。 昨年10月、全国からこの学校に入学してきた 若者達が、1年間の血を吐く様な苦しい試練に耐え晴れて 海上保安官となって生まれ出たのである 海上保安官と一概に言ってもその階級は 最高位の海上保安庁長官から学生まで16通りあり 、 現在は該当者無しとしている一等海上保安士捕、二等海上保安士捕、 三等海上保安士捕を除いても一三の身分階級に分かれている。 この舞鶴海上保安学校で産声を上げた若い保安官たちは 学生時代の細く黒い袖章からいまや階級章に細い金筋が一本入った 三等海上保安士という身分で、明後日にはそれぞれ赴任先の 海上保安署に赴任報告をするのである。 筆者はここにいる友田雄二という横浜生まれの21才の 若者と一緒に、これからこの物語を進めていきたいと思う。     海上保安学校 友田雄二は横浜市に住むサラリーマンの次男として 地元の高校を卒業すると、高校の恩師の薦めもあって 東京の大学を受験し、さほど優秀な成績ではないが何とか 世間に知られた六大学のひとつに入学することが出来た。 サークルも体育会系に入り、大学自治会にも所属して、 その辺にいる普通の大学生として、キャンパス生活を謳歌していた。 だが、夜はスナックでバイトをし、昼は自治会室に入り浸り、 肝心の授業単位が取れずに留年を余儀なくされたのである。 やっと二年生になった時、またもや三年への進級が難しい事が発覚した。 母親は悩み、雄二を問いつめたが雄二にとってはどこ吹く風であった。 ある日、新聞に一段の小さな記事で海上保安官募集とあるの 見つけた母親は、半ば強制的に雄二に試験を受けるように勧めた。 雄二は、「もし受かったらね」などとうそぶいていたが、 不幸にも無事合格し、今まで行ったこともない京都府の舞鶴に行くことに なったのである。 雄二には舞鶴などという地名は、有名な歌の「岸壁の母」に 出てくるほかは知らず、しかもどの辺にあるのかさえ知らなかった。 それに人一倍寂しがり屋の雄二は、いままで一人で生活をしたことが 無かった。
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