第1章

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あの、歌で有名な舞鶴港は複雑に入り組んだ地形になっており、 多くの引揚者たちが故国への第一歩を示したという2本ある桟橋の うち、小学校側でない一本は半ば朽ち果てており、その桟橋から 通じる当時出迎えの人々であふれかえった浜は今は某社の工場敷 地となって、日曜日ということもあってまるで当時の興奮が嘘のように 静まりかえっていた。 雄二は和船の底に仰向けにごろりと寝転んで吸い込まれてしまいそうな、 青い、青い空のその奥のほうに眼をやって、漕ぎ手をなくした和船に 小さく寄せる波の音を聞いていた。 船は緩ゆるやかな潮に流されてはいたが瞼の裏側に青い空の色が映り こむほどうっすらと目を閉じた雄二は、そのことには一向に構わず 横浜の自宅とそこにいる家族、狭い庭で散歩のおねだりをしている 愛犬のポチ、正月に帰った時、盛大に迎えてくれた多くの友人たち、 高校時代からの付き合いで会えば必ずひと時をホテルで過ごす、 左ほほに可愛いえくぼのある泰代、そして雄二の最大の理解者で 朝晩に無事を祈ってくれていた祖母、いつも難しそうな顔をして 近寄りがたい父、まるで子供の様に天真爛漫でそのくせ口やかましい母、 家族みんなから将来を嘱望されている2歳年上の兄、そしてこの学校に 同期で入学し、あまりの過酷さに去っていってしまった仲の良かった 7人の仲間たち、それらの人たちの笑顔が、動作が、夢のような時の 中で動き回っており、自分だけ一人、ポツンと輪からはみ出ている 寂しさがあった。    「そうだ、5月の連休に帰ってみよう」 大きな声で独り言を言い、起き上がるとかなり流されてしまった和船の 櫓をとり学校の桟橋に向けて漕ぎ始めた。 ゴールデンウィークの初日に当たるその日、羽田空港のコンコースは、 これから始まるそれぞれの旅の想いを抱いた人たちで溢れ返っていた。 その一角に異様な人だかりがあった。 男女合わせて約40人は居ただろうか。わんわんとした音の塊がそこから 3重にも4重にもなって、響いてきている。 そしてその中心に真っ黒に日焼けし、胸板の厚さが紺色のスーツの上から はっきりとわかるほどの体躯の雄二が白い歯を見せてにこやかに 立っていた。 小学校時代からの友人で、今も親しくしている友人の阿部が雄二の そばにたって大声で何か話している。多分これから飲みにでも 行こうとでもいうのだろう。「おー」というような雄たけびに似た
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