始まりの夕暮れ時

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始まりの夕暮れ時

 5月11日、午後5時過ぎ。  すっかり春めいた空気が辺りを包み、電車の中はこの上なく居心地の良い雰囲気を醸し出していた。  さらには、柔らかに窓から入り込む陽射しがその場を落ち着かせ、電車の乗客のほとんどは、寝るかウトウトするかのどちらかだった。  そんな静かな車内で、一人だけ目をつむる事もなく、中井零次はスマートフォンを機械的に操作していた。  画面に表示されたニュースの一覧は、止まることなく下へとスクロールしていく。  最下列で画面が止まると、零次はためらうことなく電源を切り、鞄に戻す。  ふと外に目を向けると、ビル街はすでに消え去り、辺りは郊外の風景になっていた。  今日も今日とて、何も変わらない一日になろうとしていた。  そんな当然のことを、零次は何気なく考えていた。  大手IT企業に勤める零次は、高学歴に高収入、高身長の三拍子が揃った、社会人2年目にして完璧な若手エリートである。  冷静沈着で、全てにおいて任務を無駄なくこなすその姿は、老若男女を問わず人気が高い。  ある時は感心され、またあるときは尊敬され、時々妬まれる。  職場や近所で零次を眺める周りの人間は、零次の過去に何があったのかをよく知っていた。  直接聞かなくても、自然と一番大事な事だけは口々に伝わっていったのだ。  記憶が5年分しかない、と。  5年前、世界的に有名な星空の名所である、某山盆地の天月あまつき町で震度6強の地震が発生した。  まだ建物は木造が多く、ほとんどの家は全壊し、犠牲となった住民も多かった。  幸い復興は早かったものの、身内や知り合いを失ってしまったことは、被災者の深い心の傷として、今も抱えている人が多い。  家族の全員と別れ、天涯孤独となった零次も、その一人である。
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