始まりの夕暮れ時

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 駅前に並ぶ飲食店やカラオケ店の行列を抜け、塀と電柱で囲まれた、閑静な住宅街に入る。  人通りはない。車も鳥も通らない、無音の空間。まるで時間が止まったような、変化の無い世界である。  車が一台しか通れない狭い道路にいるのは、零次とその反対側にいる黒猫だけだった。  猫は動く事もなく、道の真ん中で何かをじっと見据えているようだった。  一人と一匹は徐々に近づいてゆく。零次がそのまま通り過ぎようとした時、  後ろから声がかかった。  この時、零次の全てが、変わろうとしていた。  「……中井零次様ですか?」  「はっ?」  軽くて高く、どこが間の抜けた声だった。  不意を突かれた反射で辺りを見回すも、視界に映るのは家と道路と電線しかない。  「下です、貴方の足元に……」  同じ声がした。零次は言われるがままに、今度は足元を凝視する。  勿論、見えたのはさっきの猫だった。人影は一切見えない。  「一体誰なんだよ……」  子供のイタズラだったのかもしれない。無駄に人を足止めさせるとは、何とも迷惑な話だ。  零次が再び一歩を踏み出そうとすると、  「その背丈に漆黒の髪、そしてその声……」  また聞こえた。紛れもなく、それは零次に向けられている。  滅多に揺れる事の無い零次の心情に、疑問の念が走った。  幻聴か? いや、そんなはずは……  「間違いない、ですニャ。お待ちしてましたよ」  そう言い終わらないうちに、零次はハッと足元を再び見た。  「……まあ、いきなりそう言われても信じられないですよね」  猫は口を少しだけ動かしている。そこから「にゃあ」と小さな声が聞こえてきた。  「さっきの声って……」  「そう、いわば、テレパシーですニャ」  さっき聞いたのは、明らかに猫の鳴き声。  そして今、「響いて」いるのは音ではなく、心に伝わる声。  それを発しているのが、目の前の猫……。  そんな不思議な出来事が、こうして普通に起きている。  「……嘘じゃない、か」  否定する間は無かった。  「ちょっと、お話しできますかニャ?」  さてどうするか。零次は色々と考えた挙句、提案に乗ることにした。  「家に連れてってやるよ」  「助かりますニャ」  猫はニッコリとほほ笑み、スタスタと零次の後をついて言った。  上空に浮かんだ夕陽は、何かをささやくようにユラユラと漂っていた。
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