第1章

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 H金属の玄関前に黒塗りの乗用車が待っていた。 ブーちゃんが黒岩部長と後部座席に座ると、乗用車は静かに走り出した。 やがて閑静な住宅街を外れた処で、車を降りると、何処からか読経の声が漏れ てきた。 黒岩部長の後に付いて読経の流れる家の玄関先に立ったブーちゃんは、案内を 請う黒岩部長に続いて、家の中に入って行った。 間仕切りのふすまを外してぶち抜いたのだろう、十二畳ほどの部屋の壁際に、 祭壇が設けられ、黒縁の額に飾られた、昨夜の夜中に話をした、滝沢京子の遺 影が微笑みかけてこちらを見ていた。 そして、その遺影の前にぽつんと缶コーヒーが置いてあるのがブーちゃんの目 に入った。 昨晩自動販売機で買ったあの缶コーヒーと同じ様にへこんだままのものが。 ブーちゃんの目がその缶コーヒーに釘付けになった。    「まあ、こんなところに缶コーヒーなんて、いったい誰が置いたのかし     ら京子は缶コーヒーが嫌いなのに」 母親らしい人の言葉に、額の中の京子が「にやっ」と笑った。 その瞬間、ブーちゃんの頭の中で音を立てて何かがはじけた。 目の前が真っ暗になった。  その後、 雪の便りがあちらこちらから届き始めた頃であったから、おそらく十一月下旬 か十二月初旬だったろう。 筆者が街を歩いていた時、向こうから来たいやに痩せて顔色の悪い男から声を 掛けられた。 見ると、骨の上に皮が張り付いているような姿で、言われなければまさかあの 巨漢のブーちゃんとは思えなかった。 二言三言、言葉を交わしただけで逃げるように去っていった彼の後姿が、いつ までも心に残った。  それから、ブーちゃんを見かけたことは無い。 なんでも、色白の目がクリッとした、若い綺麗な女性と結婚をしたとか、同棲 をしているとかの噂話が聞こえてはきたが。                                完 虫 の 知 ら せ その日、浩司は自宅で趣味の書道の練習を していた。 最近浩司の自宅付近にも、宅地造成の波が押 し寄せ、めっきり少なくはなってきたが、そ れでも時々、書道の練習の邪魔をするほどの 蝉が合唱し暑苦しさを倍加させた。 妻の伸江は、明日帰ってくるという長男の 真一のために朝から台所に立ってなにやらや
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