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「基本的には平日に二日休みをとることになっているのですけど、お客さまのメールの対応などに追われてけっきょく休みの日でも職場にいってしまいます。そっちのほうが速いということもあって」
「お客さま、か」
「はい。『お客さま』なんて『お客さま』の前以外はいわなくてもいいのはわかっているのですけど、職業病みたいなものです」
「入社三年でもう職業病か……」いって先生は給仕にお茶をふたつ頼みました。
温かいお茶がすぐに来てわたしたちはそれを飲みながらしばらく黙っていました。
わたしがトイレに行き戻って来ると先生がすでに勘定を終えたところでした。わたしは礼をいって、
「先生、つぎの機会は是非わたしにごちそうさせてください」
先生は「いいのだよこれくらい」いってから、
「それより菊川くん、わたしの家にね、ちょっときみにみてもらいたいものがあるのだが……」誘いました。
わたしはその夜とくに用事が控えていたわけでもなかったので、
「YES!」なぜか英語で答えました。
そのときです。先生はその日いちばんのおおきな声で笑いました。あまりのおおきな声に給仕の方がなにごとかと心配して駆けつけたほどでした。先生はテーブルをどんどんとたたきながら笑いました。
五十五歳の大学教授です。どれだけおおきな家に住んでいるのかと思いました。
しかしじっさいのそれは慎ましい木造の二階建てで四世帯ほどしかいない一般的にコーポとよばれるような集合住宅でした。先生の部屋は一階の右側で、たしか102号室だったと思います。
「まあ、散らかっているけどどうぞお上がりくださいよ」
先生はどこからか拾って来たような先生らしくないいい方でわたしを招きました。玄関には革靴がいくつも散乱していました。どれもがわたしにはおなじにみえました。わたしはそれらを踏まないようにまずは自分の立ち位置をしっかりと決めてから靴を脱ぎ家に上がりました。入ってすぐの台所は一口コンロのちいさなものでシンクには使用済みの食器がいくつも積み上げられていました。
部屋はワンルームですが十畳くらいはあったでしょうか、広々としていました。
装飾品などはほとんどなく家具も部屋の真ん中にちいさなコーヒーテーブルと奥にシングルベッドがあるだけでした。先生はクローゼットを開け座布団をふたつ取り出しフローリングの上に置いて、
「どうぞ、お座りください」丁寧にいいました。
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