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わたしは先生が三十歳近くも年の離れたわたしに敬語を使うことを妙に感じましたが、いわれたまま部屋の真ん中に敷かれた座布団のひとつに座り、先生はもうひとつのほうに座りました。
「ぼくの部屋、狭いと思っただろう」
わたしは先生が自身のことを急に「ぼく」とよびはじめたことをすこしふしぎに感じましたが、
「いえ、そんなことありません」返しました。
そのときでした。先生が思わぬことを口にしたのです。
「ぼくはね、以前結婚していたのだよ」
「学生結婚だった」
わたしは先生の話を聞くことにしました。
「ぼくの時代は学生といったらみんな貧乏でね。だれもがアルバイトをしながらなんとかやりくりしていたんだ。彼女とはアルバイト先の喫茶店で出会ってね。恋に落ちてすぐにいっしょに住みはじめた。お互い貧乏学生だったからね。いっしょに住むということには経済的メリットもあった。もちろんいっしょにいたいという気持ちがあったことにはちがいがないのだけどね……」
「すくなくともぼくのほうはね」つけ足すようにいって先生はそっと笑いました。
「ぼくが大学三年のときだった。彼女が妊娠したんだ。経済的メリットとかいっていたのにね。彼女は『生む』といった。対してぼくはなにもいえなかった。いや、なにかをいおうさえしなかった。おそらくたんにそのときのぼくはなにも考えたくなかっただけなのかもしれないね。そうしてまるで子どもができた責任をとるように学生結婚をした。しかし金がなかった。うちの親も彼女の親も裕福ではなかったので借りるあてもなかった…」つづけて、
「たぶんぼくはほかの人よりもずいぶんと時間のかかるタイプだったのだね。大学を卒業するまでにみんなとおなじように就職を決めることができなかったんだ」
先生は目を細めてとおくをみつめながら、
「もちろんそれはただのいいわけだったかもしれないが……」
とおくといっても数メートル先のアパートの壁をですが。
「ぼくには将来の明確なビジョンがなかったんだ。もしあのときそれをでっちあげてでも説明できれば彼女も彼女の両親もぼくにもうすこしだけ時間をくれたのかもしれないがね」いって先生は自分の髪の毛を手でかきあげました。考えながら話をするときにするいつもの先生の癖でした。
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