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「もしもあのときまだ離婚をしていなかったらぼくはケンブリッジにいっていただろうか。一年研究をしたあとにさらに二年間、最終的には三年間、残って研究をつづけたいというぼくの希望を妻はきいてくれただろうか。子どもを連れて三人で助け合い、じゅうぶんな収入のない生活でもいっしょにいつづけられただろうか。しかしもし、仮にそうだったとしたら、いまごろぼくたちはどこでどうゆう生活を送っているだろうか。あのままイギリスに残って暮らしただろうか。それともこうやって戻ってきて、いまのように日本の大学で教授をしているだろうか。それともなにかほかに、なにかほかの、人生があったのだろうか……」
うつむいて、
「あのときもし、あのときもしと、いまでもぼくは考えるんだ……」
先生は言葉を詰まらせました。そして立ち上がり、
「申し訳ない。飲み物も出していなかったね」
わたしが「だいじょうぶです」いっても、
「いえ、それでは申し訳がない。すこし待っていてください」台所へと向かいました。
わたしは改めて先生の部屋のなかを見回しました。ベッド以外はとりとめてなにもない、まるで部屋探しのときに不動産屋に案内されて内見する部屋のようでした。
「これでいいかね?」
先生は梅酒のパックと容器に入った氷を持って来ました。わたしがうなずくと先生はもう一度台所へ向かいグラスをふたつ持って戻ってきました。
「なにもない部屋だなとでも思っていましたか」
「でもスッキリしていていいと思います」
「ぼくはね、あまり目のまえにごちゃごちゃと物があるのを好かんのですよ。あ、玄関の靴のことは置いといてくださいね」いってすこし笑いました。
わたしは先生からすこし九州弁が漏れたことから、そういえばこの人も九州出身だったと思い出しました。
「娘がね、去年、来てくれたのですよ。じつはね、娘は小説家になってね」
「すごい」わたしがいうと先生は、
「いやいや、まだ新人賞を取ったばかりで一冊も出版されてないのだけどね。その報告をするために来てくれたのですよ。うれしかったねえ。『お父さん、お父さんのお陰でこの度小説家になることができました。教育費、生活費をずっと送りつづけてくれてありがとうございました』いってくれてね」
先生はほんとうにうれしそうにいいました。そしてまたすこしとおくを見るような目をしてから梅酒を一口飲みました。
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