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「娘はもう三十四なのだけどね。まあ小説家デビューとしては普通だろう?」
わたしは小説家がデビューをする年齢がどのくらいのものであるかが想像できなかったためただ「そうですね」いいました。
「娘も学生結婚をしてね。この親にして、この子あり、だね。でもぼくたちとはちがって仲のいい夫婦のようだよ。いまはふたりで北海道に住んでいる」
「北海道ですか……」わたしがいうと、
「札幌の市内らしいけどね。涼しいところの方が、頭がさえていいのだと」
「冬は寒すぎるような気がしますけど」わたしがすこし笑っていうと、
「ああそうか、薫くんも九州出身だったね」
先生が急にわたしのことを名前で呼んだのですこしはずかしく感じました。
「大分県です」
いってからわたしはやめておけばいいのにグラスの梅酒を飲み干しました。
先生はわたしのグラスにふたたび梅酒をなみなみと注ぎました。
「じつはね、娘に会ったことはいままで一度しかなかったのですよ。でもそれはいいわけできるものではないよ。ぼくの怠慢だからね。最低の父親だと思われてもしかたがないことかもしれない。自分のほうからはなんの連絡もしなかったし、毎月銀行から自動で金だけが送金されるようにしていればそれでいいと思っていたのだから。妻とも娘ともなんのつながりも持っていなかったしね」つづけて、
「妻はぼくとわかれたあとすぐに再婚をしてね。娘はまだ幼かったものだから妻もいろいろなことを説明するには娘が小学生なるまで待たなければならなかったのだろう。『わたし、お父さんの存在を小学生になるまで知りませんでした』いわれちゃったからね」先生はすこし笑ってから、
「娘はいい子だよ、ほんとうに。ぼくは文学を教えているわりには想像力がないんだ。じっさい、娘に会うまでの三十三年間、自分には生身の人間の娘がいて、この国のどこかで日々を過ごしている、そうゆう意識はあったものの認識ができていなかったのだね。娘の存在はぼくにとってまるで小説のなかの人物のようだった。フィクションであり、ときおりみる夢のなかの存在だった。呼吸をして、食事をして、トイレにいって、学校にいって、恋に落ちて、泣いて、笑って、悩んで、学んで、大学へいって、旅に出て、就職して、立ちどまって、小説を書きはじめて……、そんなことを、わたしは考えたことがなかったんだ」
先生はそういったあとに一呼吸おいて、
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