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「三十四歳の娘に『お父さん』と目のまえでよびかけられても、まるで映画の撮影かなにかのようだったよ」そして思い出したように、
「そうそう、ぼくは学生のときに短編映画に出演したことがあってね」自慢げにいいました。
「とにかく」
わたしは先生がさらになにかをいうのかと思って待っていましたが先生はつづけず、またわたしのグラスに梅酒を注ぎました。それはもうグラスのふちからあふれてしまいそうでした。わたしはグラスに直接口を近づけて梅酒をストレートですすりました。
「薫くん、きみにちょっとみてもらいたいものがあるんだ」
いってとつぜん先生は立ち上がりクローゼットのほうへ向かいました。先生はしばらくのあいだなにやらごそごそと探しているようでしたが、けっきょくその手にはなにも持たずにこちらへと戻って来ました。そして先生は自分の座布団に腰を下しさらにわたしのグラスに梅酒を注ごうとしました。
「先生、もうだいじょうぶです」いってわたしは制しました。
先生はなにもいわずにまたあふれるそのギリギリまで梅酒を注ぎました。わたしはまた口をグラスに近づけそれをすすりました。先生はなにかをあきらめたかのように
「やはりだいじょうぶです」いいました。
「なんのことですか」
「きみに頼むのは申し訳ない」いって先生はとつぜんうなりはじめ、声を上げて、泣きはじめました。もちろんわたしはおどろきました。先生のおえつ混じりの泣き声をききながら、わたしにはここでいまいったいなにが起こっているのかまったく理解できませんでした。あわててわたしは、
「先生どうしたというのですか?」訊きました。
先生はなにもいわず肩を震えさせて泣きつづけ、涙が床に落ち、わたしは、
「先生!」懇願する思いで叫びました。
「こんなおねがいはやはりできないよ」先生は震える声で返しました。
「おねがいって、いったいなんなのですか?」
そしてわたしは、先生の答えを待たぬままさらに、
「先生、わたしにできることならなんでもします」いいました。
わたしはそう、いってしまったのです。
「いいんだ。もう……」
先生は立ち上がり台所へ向かい、今度はウィスキーのボトルを持って戻って来ました。そしてわたしの前でそれをボトルごと飲みはじめました。
「先生!」あわててわたしは先生からボトルをとり上げました。
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